若者は本当にわがままなのか

ほとんどテレビは見ないのだが、あるときちょっとテレビの画面を観たとき、ある著名人が「こらえ性がない」という発言をしていた。
 彼はスパルタ教育を受けてきた人だから、彼の目からは、若者がそんなふうに見えるのだろうなと、そのとき思った。その場面だけしか観ていないので、どういう展開になっていたのか分からない。もしかしたら、私の思い違いなのかも知れないが、側聞するところによると、彼は、スバルタ教育賛成論者であるようだ。

 別にその著名人の発言は、話のきっかけを作りたかっただけだから、どちらでも構わないのだが、彼のように、多くの中高年、とりわけ高年の男性は、若者に対して「我慢が足りない。わがままだ。忍耐力がない。身勝手だ」という見方をしがちである。
 しかし、本当にそうなのだろうか。

 中高年が批判するような若者を私が見るとき、私は、彼らを「意志を奪われて、諦めた」状態というふうに判断する。
 「自分中心」心理学でいうところの、“詰問系”である。
 この詰問系というのは、自著で度々述べているので、ここで詳しく説明するのは省きたい。

 簡単に言うなら、感情的になって怒鳴る、脅す、殴る蹴るなどの肉体的支配ではなく、「言葉で精神的支配されてきた」あるいは「されている」人たちのことである。
 しかも、そんな肉体的支配なら、自分が何をされているか分かるが、言葉の精神的支配は、支配されている当の本人が、何をされているか気づかない。

 例えば「親の言う通りに従うのは当たり前」という教育を受けて育っていれば、当然「親の言うことに従わなければならない」という反応をする。これは別の言い方をすれば「意志を持ってはいけない」ということである。だから、「親の言うことに従わなければならない」いうメッセージを浴びて育つというのは、毎日「自分の意志を持つな。自分の意志をもつな」と教育されているようなものなのだ。
 これを私は「見えない支配」と呼んでいる。

 本来、すべての人が、「自分の意志をもちたい。自分を表現したい」という欲求を持っている。それが生きる意味のひとつでもある。

 誕生したときからそれを否定され続ければ「生きる気力や意欲」が湧くわけがない。最初から、それを奪われていれば、自分の意志を奪われていることすら気づかず、自分が生きることに諦めていることにすら、気づかないかも知れない。
 そんな諦めた状態の中での「限定された範囲での自由」しかないとしたら、夢を持って生きるより、刹那的に生きるしかないのは当たり前だろう。

 肉体的支配は目に見えるが、「見えない支配」は、見えないだけに厄介だ。気づかないうちに支配、コントロールされ、いつの間にか魂そのものを奪われて、自分の人生そのものも放棄する。

 肉体的支配が深い痛手の傷とするなら、「見えない支配」は、おびただしい数のかすり傷である。傷は浅くても、絶えず傷つけられる。
ひとつひとつそれに反応していたら無数に傷ついて、自己崩壊するしかなくなっていくだろう。

 子供は、どんなに傷つけられても、親の庇護がなければ、生きていけない。
 耐えて生き抜くためには、「無感覚」になって自分を守るしかない。
 極端な詰問系が「無関心、無表情、無感覚、無感動」になるのは、それが、無数の傷から自分を守る術だったからである。

 こんな精神的支配という意味では、とくに詰問系の若者は、「わがまま」どころか、自分の意志を明け渡し、自分を放棄したくなるまでに、耐えて生きているのである。
 「キレル」というのは、そんな無数の傷に耐え切れなくなって「意志をもちたい」という、無意識の叫びにも等しいものである。

 だから、中高年のまさに、子供たちの「意志を奪ってきた」側の世代が、「今の若者はなっとらん」と声をあらげるのは、むしろ「お門違いなのでは」と私は思ってしまうのだ。
 古い世代の人たちは、若者を批判するよりは、身をもって、自らのそんな社会環境、家庭環境、教育環境を改善するように努力すべきではなかろうか。(続く)