親の心、子供の心

どんなに相手の立場を感じとろうとしても、自分の目からは見えないことが少なくない。

 パソコンのことで子供に訊いたとき、私の口調が、子供(大学生)の耳には、
「あなたがパソコンの操作を間違えたんじゃないの」
 と責める口調に聞こえたらしい。

 “聞こえたらしい”と言うのは、私自身は自覚していなかったからである。私の頭の中にあったのは、自分なりにチェックした上で問題がないのに、パソコンのデスクトップの画面が変わってしまっていたために、子供が何か操作したのではないかと思っての発言だった。

 そのとき子供に、
「本来、それは命令すべきことではなくて、頼むべきことでしょう」
 と、子供に強い口調で言われて、傷ついてしまった。
 むろん子供から言わせれば、「僕のほうこそ傷ついてるよ」という気持ちだろう。
 子供の言い分としたら、私が間違って操作した可能性もあるのだから、
「あたかも僕のせいのように言うのは間違っている。それ言うなら、デスクトップの状態がおかしいから、見てくれないかなあと言うべきだ」
 それが冒頭の言葉となったのである。

 もっともな話である。どちらが正しいかといえば、子供だろう。
 けれども私は、まさに私が今度出版される「感情の本(まだタイトルが決まっていない)」の中で「人は言葉の内容よりも、感情に反応する」と書いているのを地で行っているように、私は子供の強い口調に傷ついてしまったのである。
 もちろん子供は子供で、逆に私に対して同じような気持ちを抱いている。

 しかし親と子供の傷つき方は、ここが違う。
 親は、子供に否定されたとき、子供を育てた「自分と子供」の歴史の上に重ねて、子供のその言葉を受け止める。
 子供と自分との歴史を思い浮かべながら子供の否定的な言葉を聞くために、自分に対する否定的な言葉は、子供が発する以上の威力をもって、親を襲うのだ。それは、
「あなたをここまで育てあげたのは私なのに、あなたは、そんなひどい言葉を、私に投げ返すの」
 というようなショックである。

 しかし当の子供は、「親が子供のために何をしたか」など、たいして覚えていない。
 子供は単純に「親のいまのその言い方が嫌だ」と言っているだけなのだが、親は、「自分が子供を育ててきた」歴史のすべてを否定されたように感じて、愛する我が子に、裏切られたような悲しみが押し寄せる。
 それは、子供との過去の日々を思い出せる親と、小さい頃の親との日々を覚えていない子供とのギャップであるのだと思う。

 相手の立場は見えにくいものだが・・・、
 子供は、親のそんなところを理解したい。
 親は、子供に対して、自分が感じているような重みで子供が親を受け入れるのは、無理なのだと理解したいものである。

※ 相手と自分の感じ方の違いは、体験して“実感”してみないと、わからない。
「自分を中心に」していると、相手の気持ちも見えてくる。
 相手の立場を「考えられる人になる」というより、相手の立場を、「自分の立場として感じられる」ようになる。