復讐の時代(中)
一昔前、今は「権力闘争」の時代だが、これが「権力闘争~復讐」の時代となって、次第に「復讐」の時代になるという話をしたことがある。
今の年代がそうであるだろう。
やがてこれから「復讐」の時代がピークに達して「復讐~無気力」の時代となっていき、やがて「無気力」が大勢を占める時代になる。
そしてようやく、その先に、新しい誕生がやってくるのだろうか。
(前回は、こんな話をしました。)
権力闘争つまり「戦う、喧嘩する」というのは、まだ、AとBの力が五分五分である。
感情でいえば「腹が立つ。怒る。怒鳴る」といったところだろうか。
まだこの状態であれば、仮に喧嘩をしても、五分五分ゆえに、まあ、平行線といったところだろう。
等分にぶつけ合えれば、感情を抑えているよりはしこりが残らない。罵り合っている夫婦が、喧嘩が終われば何事もなかったように口を利き合うのは、そのパワーが互角だからである。
けれども、一方が、
「負けたけれども、悔しい。けれども反撃するのも怖い」
というふうになったとき、この力のバランスが崩れる。
怒りの感情が深く潜って、それが憎しみとなり、さらに長期化してなおも、その感情が処理できなければ、恨みと変わる。
社会の大勢の人がいま、どんな感情になっているのかは、テレビや書物や雑誌の傾向を見ると良く解る。
腹が立って、その怒りをぶつけたいと思っている人が多ければ、テレビで「怒鳴る人、喧嘩する人。人を口ぎたくなく批判したり罵る人」が持て囃される。
書物では、相手を喧嘩でやり込めようとするようなものが売れる。
心の中で、自分がそうしたいのに、それが「できない」と思っているから、それを堂々と(?)公共の場でやっている人をみると、溜飲が下がるのだろう。
けれども、そんな満足は「自分が相手に正面から主張しているわけではない」から、ほんの一瞬満足するだけで、それはすぐに消えてしまう。
消えてしまえば、また、元々の不満が頭をもたげる。
自分が本当に満足できるのは、どんな場合であれ、自分がその問題を直視し、自分がそれに取り組んだときである。(つづく)