復讐の時代(後)

前2回では、
 今は復讐の時代である。
 そんな見方でテレビや雑誌をながめてみると、まさにいまは「復讐合戦」花盛りで、相手を誹謗中傷したり、脅したり、小馬鹿にして悪乗りするような番組が持て囃されている。
 これも一種の復讐心である。
というようなことを話した。

 それぞれに体の痛み心の傷みが千差万別あるように、どんなことにもそれぞれの快感がある。
 復讐には復讐心を満たす快感がある。
 しかし復讐の快感は、刹那的で長く続かない。
 そのために、その満足を得るためには、絶えずどこかで復讐心を満たす行動をしなければならなくなる。

 なんて精神的負担の大きいことだろう。
 復讐心を満足させるようなチャンスなんて、そんなに沢山ころがっているわけがないからだ。

 例えば会社で、職場の人を相手に復讐心を満たそうとすれば、一度は相手を傷つけることに成功するだろう。
 うまくいけば、数回成功して、復讐の快感を得られるかも知れない。
 けれども、数回もすれば、相手は自分から離れていく。

 職場で次々に、復讐心を満たすために相手を傷つけていけば、最後には誰も自分の側からいなくなってしまう。
 結局、「自分は決して人に愛されない」と信じている通りになって、ますます、人を憎むというような悪循環になる。

 復讐心の快感を継続させようとするのは、かなり困難なことなのだ。
 だからいつかは、破綻する。

 ところが不思議なことに、復讐的な気持ちに囚われている人は、自ら「相手から嫌われるような」行動をとる。
 親しくなればなるほど、相手を傷つけていくだろう。
 その行為は、飛行機で空を飛んでいるとき、操縦もできないのに、操縦士に喧嘩を吹っかけて操縦士の首を締めるようなものである。
 それはまるで、相手を故意的に遠ざけようとするかのようである。

 なぜそうしてしまうのだろう。
 もちろん、復讐の「快感」に浸りたいからである。
 ふたつは、「相手を傷つけるやり方」は知っているが、「愛情をもった関わり方」を知らないからである。
 三つは、「愛情を得られた」としても、それを継続させていく術を知らないからである。むしろ、愛情が続こうとすると、それを継続させることに、常人では予測がつかないほどの恐れを抱くだろう。

 復讐心だけでなく、さまざまなマイナス感情は、突き詰めていけば、「愛の変形」である。もともと、愛がほしい。愛の満足感がほしいと切に願っていた(いや、進行形でもあるだろう)。

 愛情を得られないと諦めたものの、それでも諦めきれないと「復讐の快感」を目標にしはじめる。

 けれども本当に望んでいるのは「愛情」だから、復讐の快感で心から満足することは、永遠にないだろう。

 しかも復讐の快感の後には、必ず「恐怖」が襲ってくる。
 だから、復讐心に囚われている人は、いつも、何かに脅えている。
 脅えながら、見えない敵と戦っている。
 実際に、自分が傷つけた人々から復讐されはしまいかと脅えもするだろう。
 だから決して、心は平穏でいられない。

 しかし、もっと怖いのは、こんな復讐の時代にあって、復讐的な人々に憧れや羨望を抱く大衆のほうである。
 復讐的な人々がもて囃されるのは、それを支持する人々の心を代弁しているからであるだろう。
 いかに、自分が誰かに復讐したいと思うほど、虐げられている(と信じている)人が多いことか。

 そんな意識が、独裁者を生む。
 独裁者は一人で存在しているわけではない。独裁者の生き方に同調する人、賛同する人、隷属する人がいて、初めて、独裁政治が成立する。
 だから、独裁者が生まれるのは、それを指示する民衆の側にも、責任があるといえるだろう。
 自分は行動しないで、独裁者頼み(神頼みならぬ)になる。
 
 つまり、復讐の時代というのは、「自分の力では状況を変えることができないと信じていて、自分では動こうとしない」人々が多いということの象徴ともいえるのではなかろうか。
 社会を救う力は、スパイダーマンではなくて、「自分の中にある」
と気づかない限り、独裁政治を生む下地をつくることになる。