前世療法(後)

過去も未来も、あるいは過去世も来世も、いま現在、あるいは現世
に現れている。
 一言でいえば、すべてが「今の、この瞬間」に凝縮されている。
 これが、自分の体験を通して実感している、私の中では実証済みの
「持論」です。

 ここも「自分中心」の生き方と共通するものがありますね。
 「現在の私」を中心にして、「過去の私を観る。未来の私を観る」
という発想です。
 いかに、「自分中心」という概念が的を得てるか、です。

 つまり「現在の私」を中心にして言えば、「今の私」がこうだから、
「過去の私」がそういうふうに映るし、「未来の私」もそう映る、と
いうことなのです。

 この「意識の概念」は、過去世を観るときに当てはまるだけでなく、
「未来予知」や「予言」にも当てはまります。
(この予知については、またの機会ということに)

 13号ではこんな話をしました。

 例えば、ずっとあなたは「人が嫌い」だったとします。
 ところが一夜にして、あなたは「人が好き」になりました。
 すると、あなたが思い出す過去の記憶も、一夜にして「人が好き」
の場面へと変わります。時には、同じ場面でも、微妙にストーリーが
変化します。

 「人が嫌い」だったときは、「いじめられているとき、誰も助けて
くれなかった」という過去が、思い出されます。
 ところが「人が好き」になると、同じ場面であっても、いじめられ
ているとき「友達が助けてくれた」というふうに、変化するのです。
 しかもそのときの意識は「助けてくれた」というほうが強く印象に
残ります。

 こんなふうに、あなたの今の状況が客観的事実であるかどうかより
も、「現在の私の目(心境や信念)」で過去を観るのです。

 同様に、未来を創るときも、「現在の私」が変わらないとしたら、
「現在の私」が「未来の私」のひな型となるでしょう。
 つまり「未来の私」も、結局は「現在の私」と相似形(フラクタル)
だといえるのです。
 だから「現在の私」も「過去の私」も「未来の私」も同じというこ
とになるのです。

 この論理が、過去世にも、来世にも当てはまるので、驚きです。

 仮にあなたが前世の記憶を垣間見たとしても、「現世の私の目」で
前世を観るために、その前世もまた、「現世(正確には、今の瞬間の
私)」を物語っているということになります。

 例えば「犠牲者タイプの私」は、これまで、それこそ殉教者的な生
き方や英雄的な生き方が大好きでした。
 例えば、ある一つの人生では、そのために観衆の目前で処刑される
ような光景が幾度も浮かんでいました。
 けれども現世では、率先して犠牲になることに疑問を抱きはじめて
いました。
 そして、「犠牲者的ふるまいから抜け出そうと」と努力します。

 あるとき、自分の中で、何かがふっ切れた感覚がありました。
 これまでの感覚と異なる意識状態というのでしょうか。
 まさにそのとき、光景が変わるのです。

 時代は同じですが、自分が惨殺されるシーンではなくなり、
「宴の中にあって称賛されているシーン」が浮かぶようになったので
す。

 ちなみにそのとき、「腑に落ちる」感覚が起こりました。
 それは、
「ああ、そうか、犠牲になって殺されることが判っていても、なぜ、
敢えてそんな死を望んだのか。それは、無意識に、この称賛を欲しがっ
ていたのだ」と。

 それはともかくも、こんなふうに、過去にあること、それは今にも
現れている。未来にあること、それは今にも現れている。
 過去、現在、未来という時間と空間の軸を外していけば、そうなる。
 だから、今のこの瞬間が宇宙なのだと。

 だから、こう言えるのです。
 人生の土台となる意識という点でいえば、
 現在がそうであれば、過去もそうであるし、未来もそうなる。
 現世がそうであれば、過去世もそうであるし、来世もそうなる。

(まあ、この過去世が、事実なのか夢なのか、それとも脳がつくり出
 した幻視なのかについては、議論百出でしょうし、まだ科学的には
 証明されていないでしょうから、ご自由に判断してください。)