自分を認めているだろうか

最近、つくづく、多くの人にとって「選択の責任」が重要なんだと
痛感している。
 たびたびメルマガの中でも取り挙げているが、私の本を読んだこと
がない人は、なんとなくは解るていどではなかろうか。
 けれどもこの「選択の責任」は、「自分を認める」「相手を認める」
ための基本である。

 相手を認めよう。自分を認めよう。
 誰でも「言葉」では、そう言う。

 けれども、この「相手を認める」「自分を認める」ということを、
具体的なところまで自覚しながら、全体を把握した上で、“実感”を
もって実践できている人がどれだけいるだろうか。

 「認める」というのは、その基準をどこに置くかで、
《「誰でもできている」ということもできるし、「誰もできていない」
ということもできる。》

 「認める」の基準を下げれば「だれでもできている」し、基準を上
げれば「皆無」といえる。
 それほど、「認める」ということは、意識レベルの感覚でいえば、
無限に近いほどのステップがある。

 例えば、あなたの子供なりパートナーなりが、仕事をしないで家に
いる。

 相手を認めない意識でいると「仕事もしないで」と、「も」を遣い
たくなる。「で」という言葉も強調したくなるだろう。
 この捉え方で既に、子供なりパートナーがそうすることを認めてい
ないことになる。
 この相手を「私は」に置き換えてもいい。
「私は仕事もしないで、家にいる」
 こんな言い方をすれば、それだけで、自分がすごく悪いことをして
いるような気分になるだろう。

 「相手」あるいは「私」がそうすることを認めることができるとし
たら、
 仕事をしていない。
 家にいる。
 この二つを分けて捉えることができるだろう。

 「仕事をしていない」あるいは「家にいる」ことは、悪いことでも
良いことでもない。そこには、ただ、客観的な事象があるだけだ。
 この「仕事をしていない」ことと「家にいる」こととを前者のよう
にくっつけてしまうと、仕事をしていないと、まるで家にいることす
らも、罪悪のように感じてしまうに違いない。
 実際には「別のことなのに」である。

 この前者と後者の違いが、“実感”として解れば、いろいろな場面
で、いかに自分が、普段から、相手や自分がそうすることを認めてい
ないかに気づくのではなかろうか。

 もし心から「相手を認める」「私を認める」ことができれば、遣う
言葉も違ってくる。自他を責める言葉は、限りなく少なくなっていく
だろう。

 この「選択の責任」は、また、「本当の愛」の基本でもあると、私
は思っている。自他を認められればられるほど、本当の愛に近づく。

 ここでまた「本当の愛」などという言葉を遣うと、じゃあ「本当の
愛を知っているのか。知っているとしたら、本当の愛とはどういうも
のだ」といった声が聞こえてきて、長くなってしまうので、このあた
りで終わりにしておきましょう。