なぜ願いが叶わないのか(下)

前回の続きになるが、
 人間脳は智惠や知識の満足。
 感情脳は感情と愛と意志の満足。
 脳幹は肉体の満足である。

 とりわけ右脳でイメージする祈りは「真の祈り」とは、ちょっと質
が異なるもののように感じる。

 それぞれの満足のうち、どれがより高次であるか。“私流”の解釈
でいえば感情脳である。(と、ひとまず、断定しておきたい)

 願望は脳幹や人間脳でできるが、「真の祈り」は違う。
 「真の祈り」は感情脳を基準にしている。
 しかもその「祈り方」すら意識のレベルがある。

 例えば、相手のために祈る。
 一見、とても崇高な行為のように思える。
 しかし、その「相手のための祈り」が、「心の中で“相手が変わる
ように”」と祈るものであれば、そこにあるのは、支配である。

 あるいは、自分のために祈る。
 その「自分のための祈り」が、「心の中で“自分が変わるように”」
と祈るものであれば、そこにあるのは、自分への束縛である。

 それが「真の祈り」であるかどうかは、その祈りが現象としてあら
われたときに判る。
 もしその現象が「平和と調和でなかった」としたら、「真の祈り」
とはいえないものだろう。

 祈りは愛である。
 だから、脳幹や人間脳を満足させるための「願望達成の祈り」は、
本来、祈りとは言わないかも知れない。

 それが愛かどうかは、祈った後、次にどう思うかで、判る。

 祈った後、現実を見て、
「こんなに祈っているのに、まだ変わらない」
 という気持ちになるとしたら、それは、相手や自分を「それではだ
めだ」と無意識に責めていることであり、相手や自分の生き方や意志
を認めていないといえるだろう。

 だから、それが現実に形として現れるとしたら、どんなに平和を祈っ
たつもりでいても、トラブルや争いを生む。

 真の祈りといえるのは、毎日の生活の中で体験し、感情で実感する
継続的、かつ穏やかで静謐な満足感であるだろう。
 そんな「感情脳」で感じる“幸福感”“歓び”を別名、祈りと言い、
それはまた、祈りが叶っていると感じる「心の状態」を言う。

 前回述べているように、願望が達成したからといって、満足すると
は限らないというのは、「願望達成」したとしても、こんな「心の状
態」を得ることができないからではなかろうか。