身近な人にできる協力って?

 こんな質問があった。
「親しい友人の、生活状況が悪化して、見ていて辛い。どんな援助を
したらいいのでしょうか」
 その親しい友人というのは、専業主婦である。
 ところがある日、突然夫が仕事を辞めてしまって、なかなか仕事を
探そうとしない。それどころか、まるで、人ごとのように平気な顔を
している。

 こんな状況になっているとしたら、妻はまず、「夫が働かない」の
を前提とする必要がある。仕事をするようにと発破をかければ、夫は
却って、動かなくなるだろう。

 夫は恐らく、仕事を辞めるまで、我慢を蓄積させていて、それが
「限界に達してしまった」といえるからである。

「まるで人ごと」のようにふるまうのは、社会と自分を断絶させて
視野を遮断し、自分と周囲とのつながりを現実的に実感していないた
めである。決して、横着で無神経なわけではない。
 そのために、感情も、それほど感じられていないはずである。

 これを妻自身の問題として考えるなら、そもそも結婚した当初から、
この妻は、
「強い人に甘えたい。強い人に引っ張っていってもらいたい。守って
もらいたい」
 という、心理的な依存心が強いために、夫が「それを満たしてくれ
るのではないか」という思いから、結婚したのではないかと思われる。
 ところが、甘えさせてくれるはずの夫、リードしてくれるはずの夫
が実は「妻以上に、依存心の強い人だった」ということだろう。
 というふうに、「甘えたい」という思いが強いと、甘えられる相手
どころか、同様に「依存心の強い」相手がやってくる。
 これが「意識の法則」である。

「自分中心」心理学では、その夫婦の状況は、そんな二人の依存心
を修正するために問題が起きているという捉え方をする。

 したがって、妻は、自分の自立のために、夫に「働け」と責めるの
ではなく、自分自身が自立のために「働こう」という意識を育てるこ
とが大事である。
 前記したように、妻が夫に働くことを期待すればするほど、夫の回
復は遠くなるだろう。

 では、そんな友人をもっている「私」としてはどうするか。
 一言でいえば、とても私が何とかできる問題ではない。
 だから、できる範囲で協力する。
 その「できる範囲」というのは、私自身が楽かどうかが基準である。
 きつくなったら、それ以上のことをしない。私がきついのを我慢し
て手助けすると、友人(妻)の依存心が強くなって、こじれると、逆
に恨まれことになる。

 友人が愚痴をこぼしたとき、私が聞いてあげられる範囲のことは、
聞いてあげてもいいだろう。
 けれども、愚痴を「こぼす、こぼされる」だけの関係は、依存関係
を育ててしまうので、注意したい。

 このとき私ができる援助は、「夫について愚痴をこぼす友人」に対
して、
「私にそれを言うのではなく、夫に、その気持ちを伝えることが大事
なのだ」
 と友人が「夫にそれを自分の口から言う」ことができるように働き
かけるのが、援助である。
 このほうが、本当の愛だといえるだろう。

 今まで、その友人も、主張することを恐れていたはずである。
 友人にとっては、それを夫に言うことが、自立心を育てることにな
る。
 友人の夫にとっても、妻(友人)がそういう本音を言うことがまた、
夫が自分の本音を言うきっかけをつくる。
 二人とも、その勇気が、自立心を促す。

 例えば、夫が、
「これまでずっと我慢して働いてきたけれども、今は、もう、働かな
ければと思うだけで、身体が動かなくなってしまって、つらいんだ」
 などと、自分の状態を認め、直視できるのも自立の一歩である。

 そんな夫の気持ちを、妻が受け入れる。
 この受け入れるということは、「妻は、そんな働けない夫を前提に、
自分が働こうという気持ちになる」という自立心を促すことを意味す
るものである。

 結局「私」としてできるのは、「二人が向き合えるようにする」た
めにサポートする。
「選択の責任」を犯してどんどん踏み込んでいくと、助けているよ
うで、実際は自立の足を引っ張っていくことになる。

※ 詳しいことはいずれの機会に述べたいが、「自分が意志をもっ
  て行動する」と、どんなに悲惨な状況であっても、その状況が消
  える。ときには、状況が一変して、一気に終息に向かう。
   これが「意識の法則」である。
   なぜそうなるか。不調和だったバランスが、調和へと向かうか
  らである。