「捨てる」と「捨てられる」(後-2)

 これまでの話をまとめると、
・恋人であれ仕事であれ「捨てる・捨てられる」という現象が起きているとき、そこには、
・「捨てられる」側にも「捨てる側」にも、無意識の同意がある。
 もちろん無意識だから、顕在意識では自覚してない。
・なぜ同意があるのか。それは、無意識のところまで掘り下げていけば、「捨てる」にしろ「捨てられる」にしろ、その状況の中に何らかの「メリット」があるからだ。

 そのメリットゆえに、「恋人となかなか会えない」でも、「恋人に捨てられた」でも、「無意識の私」は、それに同意しているといえるのだ。
 
 この同意というのは、「快くそれを同意する」も一つ。
 同時に「そうなることを恐れている」も同意とみなす。なぜなら、恐れていることは、イメージの中ではそれが実現していて、実際に体感しているからである。

 例えば、前回までに書いたように、「なかなか会えない」のは、無意識の点でいえば「会うのが怖い」と言い換えることができる。
「長く一緒にいると、苦しくなる。何か問題が生じるだろうと恐れる」
 これも「会うのが怖い」になる。

「無意識の私」から言えば「長く一緒にいるのは怖い」を回避するために、「なかなか会えない」状況を創る。
 これも無意識のメリットだといえる。

 こんな状況でもし「私」が「なかなか会えずに別れることになった」としたら、相手のことをどう思うだろうか。
「無意識の私」は同意していても、顕在意識の私は「恨む」という被害者的な意識を抱くことになる。

・「顕在意識の私」は「恨む」。
・「無意識の私」は「メリットがある」と知っていて、同意している。
 他者中心であればあるほど、自分を観ないから、自分の顕在意識と無意識のギャップに悩むことになる。まして無意識は、自分では自覚できないから厄介である。

 では、この顕在意識と無意識のギャップを埋めるには、どうしたらいいのだろうか。(つづく)