正義は相手のためではなく、自分のために(中)

どんなにHさんの意見が正論であっても、相手が、脳幹にスイッチが入って感情的になってしまうと、どんなに言い合っても、お互いに「攻撃のための言葉、相手をやり込めるための言葉」となるので、言葉そのものには、たいして意味も価値もなくなっている。
 無駄な会話で、自分が傷つくだけである。
 だから「降りよう」。

 前回、こんな話をしたとき、「“相手”が感情的になったときには」という言い方をしました。
 
 けれども実は、「相手が感情的になったら」ではなくて、自分自身が、「感情的になっていきそうな自分自身」に気づいたら、「降りる」努力をしたほうがいいということです。

・「相手が感情的になっている」から、「降りる」つまり「やめる」
・「自分が感情的になっていきそうだ」と気づいたから、「降りる」

 結果は同じでも、自分の意識はまったく違います。
 例えば、相手が感情的になったときに「もう、この話はやめよう」
と思ったとしても、自分自身が相手以上に感情的になっていたら、
「降りたほうがいい」と分かっていても、すでに感情が許さなくなっているでしょう。
 くやしくて、腹が立って、とても「降りることができる」状態ではなくなっています。

 けれども、主導権は飽くまでも自分にあって、「自分が感情的になりそう」なのは、案外容易に気づくものです。

 しかも、試してみると分かりますが、それが早ければ早いほど、
「降りる」ことは容易になります。
 
 怒鳴ったり、脅したりして人と絡み合ってくる人は、とても依存性の強い人です。
 依存性が強いので、誰かと、絶えず「マイナスの関係」でもいいから絡み合っていたいのです。

 では、依存性の強い人が最も恐れるのは、何だと思いますか。

 それは、孤独です。
「見捨てられるかもしれない」という恐れです。

 だから、「自分自身が不快になりそう」だったら、さっさと手を引いて、孤独にしてあげることのほうが、よほど効果的なのです。(つづく)