行動というのは思考では処理できない(2)

(電車の中で、食事をし、化粧をし、携帯電話を取り出して、さも、自室のごとくふるまう美しい女性がいた……。)

 彼女は無神経。身勝手。ずうずうしい。
 いや、違う。
 むしろ、傷つくのを極端に恐れている。

 彼女は、あまりにも傷つき過ぎたので、外界から自分を守るために、自分と外界とを遮断するしかなかったのだ。

 「外界から自分を遮断している」ということは、常に、外界を(マイナスに)意識しているということである。
 以前書いたように、「無視」もそうである。

 だから、ひとたび人を意識した途端、気を遣って何も言えない。
 怖い相手に身をすくめる。
 あるいは、好きな人の前では、自分を出すのを極端に恐れる。
 相手と視線を合わせるのを恐れる。
 
 Sさんから、こんなメールをいただいた。前回のメルマガの、
「みんながするから、みんなに乗り遅れないように……」

 この「みんなが、みんなが、、、」と言ってしまうのは、
「○○すると人に迷惑でしょ」
「ほら、そんな駄々をこねると、まわりの人も笑ってるよ」
「○○だと店員さんにおこられるよ」
 と判断の材料を外部に求めてしまうから……。

 傷つけられ過ぎて育っている人は、親の責任までもとらされていて、責任をとるのを恐れている。
 だから、無意識に自分を守りたいと思って、相手のせいにして言う。
 ところが、そんな言動が無責任だと批判され、あるいはトラブルを起こして、自分をいっそう傷つけていく。

 こんなふうに、傷つけられ過ぎて育っている人は、人の言動にはすぐ敏感に反応して傷つく。

 しかし、その多くが、自分の思考で、勝手に傷ついている。
 つまり、相手の反応を気にしながら「思考で勝手に否定的に憶測したり、相手を批判したり責めたり攻めたりしながら、傷ついていく」のである。

 そのために、かえって、「本当に傷つけられたとき」、それに気づかない。
(「無意識」のところでいえば、気づいたら「困る」。気づかないほうが、まだ安全だと思っている。)

 本当は、
「相手が〇〇と言ったから、私は傷ついた」
 ではなくて、
「相手が〇〇と言ったとき、私は自分の意志や気持ちを大事にした対処ができなかったので、自分の無力さに傷ついている」
 ということだろう。

「自分の気持ちや意志を大事にして主張したり行動すると、また、攻撃されて傷つけられる」
 という体験をたくさんしているために、行動できない。
 だから、それに蓋をして、思考に走る。
 「自分のために行動する」恐れを回避するために、「思考」で解決できると、思いたいのだ。(つづく)