行動というのは思考では処理できない(3)

 自分が傷つけられても、「傷つけられている」とわからない支配の仕方を、「自分中心心理学」では、「見えない支配」と言っている。

 動けなくなってしまっている人、何をしたらいいか分からないと「思考」で悩んでいる人たちは、その環境で、この「見えない支配」のオンパレードだったはずである。

 自分の主張や言い分を十分に聞いてもらえるチャンスがなかった。
 自分の意志を十分に尊重してもらえなかった。
 一方的に、押し付けられた。
 自分の感情を無視されたり、否定されたりしてきた等々。

 でもそれを「当たり前」だと信じ込んできた。
 あるいは、そうせざるを得なかった。

 自分の中にマイナス感情が起これば、自分の感情のほうを「間違っている」と捉えたり、「悪いことだ」「わがままだ」と捉えてしまうため、自分の感情を抑えるしかなかった……。

 その感情をなだめるために、「合理化したり、自他に言い訳したり、正当化したりする」など、「思考する」というパターンが身につく。
 と同時に、自分を守るために、感情を鈍感にしていく。

 何でもそうだが、使わないと退化していく。体の機能もそうだ。

 以前にも書いたことがあるが、感情脳(大脳辺縁系)に、扁桃体というのがある。
 科学的なメカニズムは勉強不足で説明できないが、行動力は、情動と運動機能の連携だと考えている(感じている)。

 五感の感覚に、扁桃体の「快・不快」(あるいは苦痛なども)の情動が連動して、肉体が反応する。

 こうした情動と連動した運動感覚が協力し合って、行動ということに結び付いているように思う。

 また、危険を察知する機能は、感情脳(大脳辺縁系の扁桃体)に所属しているらしい。

 例えば、感情を遮断していない人は、雑踏の中で、人がぶつかりそうになったとき、それを察知し、瞬間的に体が動いて、それを防ぐことができる。

 ところが、感情を遮断している人は、「あっ、避(よ)けなければ」と思考で処理しようとするも、身体がすぐには反応しない。思考とは裏腹に、身体は「固まる」ことを覚えている。
 そしてぶつかって、その後で、
「どうして、ぶつかってくるんだ!」
 などと、また言葉で反応する。

 人対人であればまだいいが、これが人対車となると、とんでもないことになるだろう。

 あるいは、情動反応が低下していると、本来なら怖くて逃げてしまうような相手や、場面でも、それを感じられずに近づいてしまう危険性も出てくる。
 つまり、危険に晒されても、それを危険と感じないわけである。
 これがいかに危険なことか、分かるだろう。

 こんな瞬間的な行動だけでなく、本でも書いているように、「意志」は「感情」から生まれる。決して、「思考」から生まれるわけではない。また、結局は、「思考」よりも「感情」のほうが優先する。
 「思考」で行動しているように思っていても、それは、根底で、「感情」がそうすることにOKを出しているからである。(つづく)