過去を語っても治らない?
心療内科や病院に通っていたとき、
「〇年通院していて、過去のことを語っていたら、かえって悪化した」
クライエントの方々から、時折、こんな話を聞きます。
過去のことを思い出して語ったからといって、それだけで自分のつらい症状から解放されるというわけではありません。
繰り返し、繰り返しそれを語ることで、かえって悪くなる場合もあります。
どうしてでしょうか。
それは、「その問題の解決方法を見いだせないまま」に、過去のつらい場面を繰り返し語ることで、
「その出来事に対して、私は無力で何もできない」
という思いを強化させてしまう結果となるからです。
過去を思い出せば、回復するというものではありません。
例えば、肉体的疾患でいえば、「私の病気はなんだろう」と悩んでいます。病名がわからないので、不安です。
病院に行けば、病名がつきます。そこで、
「ああ、私は、〇〇だったのか」
と病名を知ることで、一つの不安は解消します。
「けれども、その病気は、どうしたら治るんだろう」
というふうに、今度は、その治し方が重要になってきます。
治し方が分からなければ、考えれば考えるほど、落ち込んでいくでしょう。
ですから、過去のことを思い出すにしても、語るにしても、その後、それを解決するには、「〇〇というやり方がある」という「うまくいく代替案」を知る必要があるのです。
「ああ、そうか、〇〇というやり方を実行できれば、うまくいくのか」という気づき。それを実行できるまでのトレーニング。小さい場面での実践と成功の蓄積。そうやって、必要な場合は、さらには最もハードルの高い課題に挑戦する。
こんなプロセスを得て、本当の意味で自立していくのです。
そしてこのプロセスを一歩一歩大事にすることが、「過去の癒し」であり、と同時に、未来を創造することにもつながっていくのです。
だから、常々、「時間をかけてください」と私は言うのです。
確かに〇年通院した人が、1~数回のセッションで劇的に好転する場合も少なくありません。それでも私は、精神的成長は無限ですから、ゴールを設定せずに、日々の成長を喜びとしてほしい。そう願うのですが。
こんなメールが届いています。
「時間をかけてカウセリングを受けよう。時間をかけて自分を癒そう。新しいやり方や生き方を、時間をかけて学ぼう」
私は最近、時間がぎりぎりになることや、やることに時間がかかることを、「ああ、またぎりぎりだ」とか「ああ、また時間がかかった」といわず、「ぎりぎりでいいんだ」とか、「時間がかかっていいんだ」とつぶやくようにしています。するとどうでしょう。余裕ができるのです。不思議です。楽ですね。