自分に必要だからこだわる(下)

 自分が何かにこだわって苦しんでるときは、それから逃れたいゆえに、そのこだわりを否定したり拒否したり退けようとする。
 けれども、そのこだわりから、なかなか解放されない自分がいるとしたら、それは、自分の得意分野だと思って受け入れたほうがいい。
(前回、こんな話をしました。)

 苦しい状態に陥っているとき、それは実は、
「愛をとりもどそうとしているのだ」
 というふうには、解釈する人はいるだろうか。

 しかし最近、私はとみに思う。

 我々は、赤ちゃんから大人になるまでのステップとして、その段階段階で得られるべきものを得られないと、いくつになっても、それが60歳になっても80歳になっても、その穴埋めをしようとするものだと。
 あなたが、小さいころ、(本当の意味での)愛をもらえなかったのだとしたら、あなたは、いま、その愛情をとりもどそうとするだろう。

 例えばあなたが、家を出るとき、「何度も何度も鍵を確かめずにはいられない」とする。
 それは、小さいころ、無断で親が自分の心に侵入してきたから、心の鍵をかけておかずにはいられないのだとしたら、どうだろう。

 一般的に、ほとんどの人が、マイナスにみえる症状や状態は、それをあたかも“悪”のごとく、否定したり、拒否したり、責めたりするだろう。
 しかし、前記のような解釈を前提としたら、「何度も鍵を締める」という行為は、自分を守るための行為だといえる。「何度も何度も鍵を締める」ことで、自分を「何度も何度も、愛してあげている」ことになる。

 自分を愛するために、自分を守るために、そうしていることになる。

 こんなふうに捉えることができれば、その行為を否定するどころか、
「今、自分を愛してあげているのだ」と肯定することができるだろう。
 事実、そう解釈したほうが、心が納得することに気づくはずだ。

 心理治療においても、こんな解釈をしてもらうと、驚くほど治りがはやい。
 あなたがいま、そんな状態で苦しんでいるのは、愛情のとりこぼしがあったからである。

 前記したように、私見だが、我々は、誕生して成長していく、その段階段階で、ちゃんと“得るべき愛”があるらしい。それが得られず「とりこぼし」があると、いくつになっても、その穴を埋めたくて、前に進むより、それを取り戻そうとする。

「愛のとりこぼし」があっては、前に進めない。
「必要な愛を得る」というステップを省略したままでは、うまく前には進めない。
 それが「こだわり」となって現れていると、私は思うのだ。

 ところが「愛の穴埋めをしたい」と願っても、大人になれば、赤子のような愛し方で接してくれる相手を探すのも大変だ。
 だから、「愛を取り戻す」ためには、
「自分が自分で、自分を愛してあげる」
 自分に現れている症状とは、そういうものだと私は思う。

 自分の“心と肉体”とは、嫌でも一生付き合っていくことになる。
 だから、急ぐことはない。
 ゆっくりと、自分の心を見詰め、自分を愛してあげたい。

 人よりもまず、自分を愛してほしい。
 自分を愛することができれば、自然と、物事も運命も良い方向へと進んでいく。