超感覚(下ー1)  

(ユング派が言う「内臓感覚」や、ディクマンの「超感覚的知覚」に
ついての話です。)

 これは、誰でもが持っている能力なので、試してほしい。

 自分としては心当たりがないのに、相手がそばにいると、
 頭が痛くなる。
 関節が痛くなる。
 肩が急に重くなる。
 だるくなる。
 眠たくなる。
 動悸がしてくる。
 胃が痛くなる。
 脳のあちこちが反応する。
 というふうに、相手の肉体の状態を“私”が感じる。

 急に哀しくなる。
 急に腹が立ってくる。
 急にめまいがする。
 幸せ気分になる。
 温かい気持ちになる。
 嬉しくなる。
 なんだか急にハツラツとした気分になる。
 若返る。
 目が覚める。
 というふうに相手の感情や気分を“私”が感じる。

 こんな大ざっぱなエネルギーだけでなく、脳の状態や脳波や、もっと微細な意識も感じる。
 相手のその奥に押し込められた感情や、過去の感情、あるいは予感というのだろうか、未来の感情や意識を感じることもある。
 それがもっと具体的になれば、未来にどうなっていくかを見えるというか、感じるというか、そんな感じ方をするようになる(多分誰でも)。

 このように、
「相手の意識や身体の状態を、私が感じる」
 だとしたら、私自身が楽になったとき、相手はどうなるのか。
 当然、楽になるはずだ。

 これが「自分中心」と「支配関係」の違いの目安にもなった。
「自分が楽であるとき、相手も楽である」
 あるいは、
「自分も相手も、いい結果になる(ほうへと進む)」
 というのが「自分中心心理学」の理想である。
 自分が楽でも、相手が苦しいのでは「自分中心」にはならない。
 
「自分中心」になっていると、「私と相手」がピタッと融合するように心地よい瞬間がある。言い換えれば、それは同じ意識レベルで愛を感じあっている瞬間といってもいいだろう。
 こんなとき、「相手と私」との境界線が消える。

 ところで、こんな「超感覚」でいうと、私が相手の影響を受けないで、「私自身が楽」な人がいる。まるで、その人が、そこに存在しないように、人の気配すらないほど感じない……。

 ただし、私にとっては、非常に楽だが、相手自身は、とてもつらいはずである。
 それは、どんな人だろうか。(つづく)