超感覚(下ー3)

(ユング派に、「内臓感覚」や、ディクマンの「超感覚的知覚」という言葉がある。)
 話を元にもどすと、どうしたら、自分にとってつらい「相手の意識」を感じないでいるようにすることができるか。

 拒否する、戦う、抵抗する、では疲れる。

 Kさんから、
「自分を大切にしている人はバリアーのようなものが出ていて、エネルギーを受けないようになるのではないですか? それが悟りというものではないですか?」
 という問いを戴いたが、バリアーを張って遮断するという発想も、ちょっと違う。

 バリアー(?)を張ると、張り続けるのにエネルギーがいって疲れる。

 いずれにしても、それを否定したり、拒否したり抵抗すると、いっそう疲れる。
 やっぱり、受け入れたほうがいい。

 とはいうものの、どうやって? 

 それが、「自分を中心にして、意志をもつ」だった。
 あるいは、
「選択の責任ができているほど、影響を受けない」
 ということだった。

「選択の責任」は、「自分を認める」「相手を認める」という“愛の基準”ともいうべきものである。

「意志」は万物を創造するひな型となる。
 相手に無防備になっていたり、意志があいまいな状態でいると、相手の意識に影響を受けやすい。

「選択の責任」が、できればできるほど、その影響は小さい。
 それは「選択の責任」が、「愛の基準」だからだと、私は思っている。

「選択の責任」が「愛の基準」だとすれば、やっぱり、愛は、現実社会の中で、人と一緒にいて交わってこそ感じられるもの……。

(ちなみに、「相手のエネルギーが自分にとってつらい」というのは、相手の意識と自分の意識の違いである。その差が大きければ大きいほど、苦しくなるということで、エネルギーの優劣・高低を言っているわけではない。)(つづく)