超感覚(下ー4)

 ちょっとまた、超感覚と話がそれるが、(前回の)Kさんのおっしゃっていた「悟り」……ですか……。
 どんなんでしょうね。

 我々を全知全能の神、あるいは宇宙と見立てる。
 宇宙は、地球のみならず、太陽系、銀河系、他の銀河系、多次元、他の次元、異次元、あの世もこの世も、過去も現在も未来もすべてを含めた宇宙である。

「悟る」より、「自分を中心に」して、自分をもっと宇宙にも拡大させて、文字通り宇宙にも飛び出し、宇宙の仕組みを「体験しながら知ったほう」が、もっと面白そうだと、私は思うのですが……。

 カウンセリングのとき、
「いつ治りますか。どれぐらいで治りますか。どうすれば、治りますか。〇〇をすれば治りますか」
 とよく、尋ねられる。

 そう問いたくなる気持ちは理解できる。しかし、そう問いたくなっているときの気持ちのほうに焦点を当てると、どうだろう。
 多分、焦りや不安といったマイナス感情を感じているはずである。

「治るかどうか」に囚われて、自分の意識がそこに集中しているとしたら、まず、治る前に、その「治るかどうかの思考に囚われて、切羽詰まっている状態」から自分を解放していく必要が出てくる。
 
「悟り」も同じだと思う。   
「悟り」を意識すれば、それを「意識している状態」に囚われる。
 囚われている間は、悟りという観念から、解放されない。
 
「治るかどうか」にしろ「悟るかどうか」にしろ、これも「ゴール」を意識している。
 ゴールを意識しているかぎり、それはやってこないと、以前に書いたことがある。
 ゴールなんて、どこにもない。

 いま、ここに、自分が「いま生きて、そうやっている」状態があるだけだ。
 そのいまの状態を「100パーセント生きる瞬間瞬間」が、長ければ長いほど、「悟り」といえるものに近づくことになるだろう。

 しかし、この「100パーセント今を生きる」というのすら、本当は100パーセントと呼べる状態を語るのが不可能なほど無限にあるとしたら、どうだろう。

 超感覚の話にもどると、「相手と私」がいるとき、他者中心と自分中心の生き方では、相手との関係の感じ方も違う。
 
 たとえば、「私とあなた」が同じ場所にいながら、Aさんの視野は、10度しかない。Bさんの視野は、70度ある。としたら、ここで既に、同じ場面での生き方すら、10度と70度の違いがある。

 誰もが超感覚を持ちながら、それを使い切っていない。
 超感覚が伸びれば、70度の視野が、80度どころか、4次元的な視野になるかも知れない。

 世の中には、こんな視野を部分的にもっている人もいるだろう。
 あらゆることを文字にしたり統計をとったり、計算できたりと、すべてに答えがあるように思ってしまう我々がいる。こんな「囚われ方」から解放されていない。(つづく)