自分を愛するか、相手を愛するか(2)

 前回、
 「同情の支配」は、残酷である。
 この「同情の支配」が高じれば高じるほど、貧困、精神的病気、肉体的病気に見舞われる。
「こんなにつつましく、悪いこともせず、人を思いやり、隣近所にも腰が低く、親切に善良に生きているのに、なぜ?」
 とその人は呻吟する。
 というようなことを書いた。

 それに対して、こんな声をいただいた。
「同情は、日本人の美徳なんじゃないですか。どうして同情が悪いんですか」
 
「同情が悪い」
 というつもりは、まったくない。

 そもそも私自身が自分のテーマとして絶えず意識しているのは、
「良い悪い」「正しい正しくない」といった価値判断ではない。
 それが「良いのか悪いのか」「正しいのか間違っているのか」の絶対的な基準はないと思っているからだ。
 それは人によっても異なる。

 無意識の観点から見れば、なおさら、一見、悪いことが起こっているように見えて、そこにもメリットがあるからだ。
(もちろん、「相手を認める私を認める」という「選択の責任」は、前提としている。)

 だから私は、
「私自身が、それをやっていて、つらいかどうか」
 という見方(感じ方)を基準にしたいのだ。
 さらに重要なのは、
「そして、その結果、どうなったか」
 である。
「それが正しくても、どんなに愛していても、その結果どうなったか。その結果が、自分にとってつらいのか、幸せなのか、満足なのか」
 ここで言えば、
「同情の支配をしたり、私が同情の支配に乗ってしまうと、嬉しいか、楽しいか、辛いか、苦しいか」
 が基準となる。

 そして、同情の「結果」として、
「状況が良くなったかどうか、物事がうまく進んだかどうか」

 この結果も重要である。

「つらい思い、苦しい思いをして、でも、結果として良くなった」
「つらい思い、苦しい思いをして、結果としては悪くなった」
「つらい思い、苦しい思いをして、結果として現状維持」

「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として悪くなった」
「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として良くなった」
「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として現状維持」

 どんなやり方をしようが、具体的な可能性としては、上記に列挙したものでしかないだろう。(つづく)