自分を愛するか、相手を愛するか(3)

 結果のほうが真実とする。
 どんな方法をとったのか。
 どんなプロセスを経たのか。
 それは辛かったのか、楽だったのか。
 その結果、どうなったのか。

 もちろん理想は、
「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として良くなった」
 誰もが望むところだろう。
(とは言いつつも、多くの人が、無意識の点からいえば、「苦労しないで良くなる」ことを、心から望んではいない。)

 机上の空論と捉えられるかも知れないが、理論的には、
「自分中心」であればあるほど、「楽あれば、楽あり」である。

 「自分が犠牲になるかどうか」という点については、
「私が自覚する」
 ほうが望ましい。

「犠牲になるな」
 と言っているわけではない。

「犠牲になるのもつらいし、犠牲にならないのも、心が痛む」ものである。

 だから、
「私は、ここまでだったら、犠牲になってもOK」
「ここまでの犠牲には、なりたくない」
 という、犠牲になるその範囲を、自分自身が設定できれば、多少迷惑をかけられても、覚悟できる。少なくとも、その結果を、悔やんだり、相手を恨んだりしなくていい。

 しかし本来は、
「私は犠牲にならない」
 ほうが、うまくいく。
「私が犠牲になる」ことは、誰かが「それで依存している」ことになる。

(ただし、ここで勘違いしていただきたくないんだけれども、「犠牲になる」意識と、「私自身が愛をもって協力したい。関わりたい」という意識とは、厳密に分けて捉えていますからね。)

 犠牲になることと、愛をもって育て合うこととは違う。
 犠牲になると、結果としてうまくいかない。
 愛をもっていれば、歩み寄れる。
(心からの)譲り合う気持ちが育つ。
 愛は、結果はうまくいく。
 愛か犠牲か同情かわからない。
 もちろんだ。
 だからこそ、自分の感情と、「選択の責任」を私は基準にしている。(つづく)