自分を愛するか、相手を愛するか(4)
私の20年間のカウンセリング生活のデータとして導き出した(目下のところの)結論として……。
例えば「自分を愛するか、相手を愛するか」という点でいえば、
「自分を愛する」ほうを選択したほうが、結果としては、うまくいく。
(ただし、この「私を愛する」ということに関しては、自分の自己肯定感のレベルの「内的感覚」が大きなウエートを占めるが。)
新聞だったか雑誌だったかで、どんな悩みが多いかのデータをとっていて、最も多いのは職場での人間関係で、次に親族つき合いとなっていた。
最近いただいたメールで、「夫の実家に泊まるのが苦痛」という相談があった。
これを、
《「選択の責任」を基準にして「相手を愛するより、自分を愛する」》
というスタンスで捉えると、どうなるか。
まず、
「それぞれが、それぞれの家に帰るのは自由だ」
夫は夫の家に、自分が帰るのは自由。
妻が妻の家に、自分が帰るのは自由。
こうなる。
もちろん、相手の実家にも気持ちよく行きたいという人もいるだろう。そのときは、「私が一緒に行きたい」という気持ちを大事にして、「一緒に行く」という行動をする。
これは、欲求(感情)と行動が一致しているから、満足度が高い。
そのメールによれば、
「私は、夫の実家に泊まりたくない」
でも、「無理して泊まった」。それが苦痛でならなかった。
他方、本家に行けば、本家の嫁もいる。
そのとき、本家の嫁はこう思っていた。
「わざわざ布団を干して、新しいシーツを用意して、まったくうッ、ただ飯まで、食わせてやんなきゃならないんだからッ」
ところが親しい親友同士だと、まったく同じ状況が、
「会えて嬉しい。泊まってくれて嬉しい」
となる。
親戚づき合いとなると、つらく。
親友だと、嬉しい。
要は、意識の問題である。
上は強制、束縛。べき思考。つまり人間脳の発想。
下は自由と善意や愛情。つまりこれは、感情脳(愛情)からの欲求。
もちろん、嫁姑の問題も、「自由と善意や愛情」があれば、うまくいくだろう。
それをむずかしくするのは、
「嫁だから、姑だから、長男だから」
という意識。
これをいったん、取り除いてから「選択の責任」で行動してみたほうが、結局は、良い結果を生むものだ。(つづく)