「相手のため」と「自分のため」2 

 さらに、ここで肝心だ。
 相手の反応を期待すると、むしろ「嫌な顔して睨まれる」結果になりやすい。

 なぜそうなるか。
 これが「関係性」である。
(信念そのものを塗り替えることも目標とする「即効性ワーク」では、こんなこまかな意識までも踏み込んでいます。)  
   
 「起こしてやる」というのは、相手のその行為(大口を開けて熟睡していること)を、否定的に見てることになる。

 そのために、相手のために「起こしてやる」と発想すると(起こしてやった当事者が言っているように)、
「大衆の前で恥をかいているあなたを救ってやってるんだよ」
 という意識が、美女に伝わる。

 美女は、その否定的なメッセージが、いっそう自覚されるので、嫌な顔をして睨みたくなるのは、当たり前である。

 つまり、恥をかいているのは美女ではなくて、起こした当事者が美女に恥をかかせたことになる。

 「起こす俺が立派」で「起こされる美女は劣っている」

 「相手のため」にという発想をすると、こんな結果になりやすい。
 しかも、起こした本人は、「勇気をふるって」起こした。それが否定されると、
「もう、これからは、傷つきたくないので、こんなときは、黙ってやり過ごすぞ」
 になってしまう可能性が高い。

 一方、「自分中心」の発想は、
「私が気になるから、起こす」
 というふうに、それを自分の課題として捉えている。

 自分の課題として捉えると、
「大きな勇気をふるって、起こしてあげたのに」
 ではなくて、まさに、この自分自身が、
「“相手を起こす”という能動的な働きかけができた私自身がすばらしい」
 という発想になる。

 さらにいえば、最初に書いたように、起こしても起こさなくても、自分自身が、自分を責めなくてすむ。

 そのために、「大きな勇気をふるわなくても」気軽に起こせるようになるだろう。

 自分ができたところを評価できる。だから、相手の反応が気にならない。もちろん、まったく気にならないというわけではないが、気になるレベルが低くなる。

 さらに、自分中心だと、美女の「大口で熟睡」を恥と感じる感覚がないので、「起こしてやった」という恩着せがましい感覚にならないですむ。だから、さりげない口調になりやすい。美女を傷つけない。

 想像をふくらますなら、「自分中心」のほうが、「下車した後で美女のほうから声がかかる(かも知れない)」など、むしろ、親しくなるチャンスも高くなる。

 このように、自分中心は、できるだけ、自分の心の中に、「わだかまりや、こだわりがないほうがいい」というスタンスに立っている。(終わり)