『邪悪な人』が増刷されたときの話
私にとって、カウンセリングをするたびに、居心地のいい会員さんがいる。
どうしてそんな気分になるのかと、ふと考えた。
その人のテーマが恋愛だからなんだろうか。
恋愛についての相談は、別に彼女だけではない。
けれども、その人に限って、私はいつも居心地のいい気分にさせてもらえる。
居心地のいい恋愛相談と、そうでない恋愛相談との違いはどこにあるのか。
それは心の中の愛の分量なんだと、思った。
彼女が相手を想起しているとき、多分彼女は、「愛している」感情の分量が多い。
愛を感じながら、さらにもっと愛されたいと思っている。その相手を愛している気持ちが、私に伝わってくるからだった。
相手のことを相談するときも、彼女は、相手に対する愛を感じながら、語っている。
他方、そうでない恋愛相談は、相手に対して、疑念や不信や満たされない気持ちを抱きながら相談している。
そんな意識の分量が、私に伝わる。
(これが悪いといっているわけでないので、誤解しないでくださいね。)
もちろん、彼女が、私に対して信頼してくれていて、好意を抱いていてくれるのもある。
この2つの要素が重なって、私は居心地のいい気分になっているのだと気づいた。
『邪悪な人を痛快に打ちまかす!』(こう書房)が増刷になったときの話です。
ネットで検索すると、アマゾンに「もう、これ以上はない」と思うぐらい“くそみそ”の批判が載ってる。それを「ためになった」と支持? する人も多い。
まさに同書は、読む人によって、「痛快」になるか「とても不快」になるかが決まる。
読んでいただくとわかるが、文章は多少コメディータッチで、意図的に辛辣に書いている。けれども、書いているとき、私自身は、“邪悪な人”に悪意を抱いていなかった(少なくとも顕在意識では)。
むしろ私は、その奥にある「自分を愛する。自分を犠牲にしない」というメッセージをうけとってほしいとの願いを込めながら、書いた。
私が目的とするのは、もちろん、こちらのほうだった。
後は読者の受け取り方次第。
否定的な箇所にこだわっている人は、否定的な箇所をとりあげて、腹を立てる。
全体の意図は見えない(のかも知れない)。
自分を大事にしたい人は、「自分を愛する。自分を犠牲にしない」メッセージのほうに焦点があたる。
(悪評であれ、“善”評であれ、私の本での書評は、最も多いのかな?)
自分の人生をどんな色に染めるかは、自分自身なんだと、つくづく思う。