我が強い? (1)

 ある女性から、
「我が強いと言われて気になっています」
 と言われた。

 私としては、長いプロセスの中で、ようやく彼女自身がそれに気づき始めた、あるいは、それを受け入れられるようになった、と判断したから言った言葉だった。

 彼女は、「我が強い」というのを、悪いイメージで捉えているのだろう。

 我が強いというのは、決して悪いことではない。
 我の強さの中には、芯の強さが備わっている。

 その証拠に、我の強い人は、人ができないことを、いともたやすく大胆に実行してしまう。

 その実行力には驚かされる。
 その行動は、時として、一般常識をも吹っ飛ばす。

 ところが、その芯の強さを、本人自身は自覚していない。

 もしくは、それを、
「こうするしか、仕方がなかったんだ」
 という言い訳に遣うために、切羽詰まった状態に自分を追い込んでから、行動をする。

 物事を一足飛びに解決する。一足飛びに決着をつける。というような行動をする。

 私自身も我は強い。
 だから、我の強い人の気持ちもよく理解できる。

 私事でいえば、その反面、相手を傷つけたくないという思いから、折れてしまう自分の脆さも自覚している。

 「折れること」が悪いわけではない。
 けれども、私がそれを「脆さ」と表現することが問題である。

 つまり「折れたい」から折れるのではなくて、「折れたくない」のに折れてる。
 その気持ちが、この「脆さ」という表現になっている……。

 私のことに関して言えば、この我の強さと、「折れてしまう」こととは“反比例する”。

 我の強い人は、情に負けてしまうから、それをふっ切るために、いきなり家出するなど、実力行使せざるを得なくなる。

 では、どうしてそうなるのか。

 それは、とても「我慢強い」からである。
 しかもそれは夫のために。子供のために。妻のために。親のために。
 というふうに、「他者のために」我慢強い。(つづく)