我が強い?(2)

 我の強い人が、心の中で、
「あの人が〇〇だから、私はこんな状況に陥っている」
 などと悲劇のヒロイン的な気持ちで、自分の運命を嘆いているうちはまだ、我が強いままである。

 それは、自分の生き方を「他者が邪魔してる」という思いからくる嘆きである。
 だから重い。

 その重さは、本当は、本人の罪悪感からくる。

 私が自分のために生きると、あの人を傷つける。
 私がいないと、あの人の人生は、真っ暗になってしまうだろう。
 私が私のために生きることは、あの人の人生を潰してしまうことになる。
 などといった発想をすれば、いっそう罪悪感が起こる。

 自分の正当性に対して、罪悪感を覚えてしまうとしたら、相手の不当性を証明するしかなくなっていく。

 だから、自分のために生きることに罪悪感を覚えないためには、相手の不当性をえんえんと、自分に言い聞かせることになる。

「あの人が、こうしてくれれば、わたしはこんな行動はしなかった」
「あの人が、こうしてくれなかったので、こうなった」
 といった具合に。

 その「相手の不当性」を第三者が聞いたとき、
「誰もあなたが、それを選択することを批判したりしているわけではないんですよ。それをすることを許さないのは、あなた自身なんですよ」
 と言いたくなるだろう。

 自分が自分のために行動するには「相手が悪者でなければならない」としたら、自分の人生においては、常に悪漢が登場しなければならなくなる。

 自分で悪者を引き寄せておきながら、悪者がいるから私はこう行動するしかないんだと、自分に言い訳をしながら、自分のしたいことをすることになる。

 それが人の目に「我が強い」と映る。

 そんな「我の強さ」が緩みはじめるのは、自分のために生きる自分を、自分が許したときである。

 つまり、我の強さは、「他者のために我慢している」という証しである。あるいは、自分が自分のために生きることに「罪悪感を覚えている」証拠だとも言えるだろう。

 自分が「自分のために生きる」「人のために自分を殺さない」ことに罪悪感は必要ない。

 相手が良い人であっても悪い人であっても、相手の心を慮(おもんぱか)るより、自分の感情のほうに焦点を当てて、
「私がそうすることを、私自身が、満足しているのか不満足なのか」
 これを基準にする。

 そんな自分ために選択することに罪悪感を覚えなくなるほどに、我の強さが、芯の強さとなっていく。

 と同時に、無謀ともいえる極端な行動も少なくなるだろう。

 それに、自分の感情を基準にした選択のほうが、結局、相手も育つ。(終わり)