契約

 ずっと以前に、申し込みフォームがないので、どういう形で申し込んでいいか分からないという問い合わせがあった。
 確かに、申し込みフォームがあると、便利だと思った。
 経営する者にとっても、そのほうが楽だ。

 ただ、ずっと心理相談畑で生きている私にとっては、それでは、あまりにも素っ気ない感じもする。

 企業セミナー等ならともかくも、こんな時代だからこそ、ホットな部分が必要ではないか、という気もした。
(私の場合は、忙しさとあいまって、これで事足りているから、そのままになっているが。そのうちフォーム形式になるとは思います)

 かと思うと、どうしてこんなにぜんぶ情報を流さなければならないのかというような申し込みフォームもある。

 例えば、誕生日、年齢、住所、氏名、電話、ファックス番号、携帯番号、メールアドレスの全部など。
 それにちゃんと答えないと、送信できない。
(6年周期リズム診断方法を知れば、相手の生年月日だけでも、情報は得られてしまうのだ。)

 信用できるかどうか分からないのに、銀行の口座番号まで教えて取引をしなければならないものまである。

 他方、自分の個人情報を流すと悪用されるかも知れないので、最小限にとどめていたいという人もいるだろう。

 当事者の立場に立てば、どちらもなるほどと思う。

 こういったセミナーの申し込みは、「契約」である。
 申し込みフォームを用いると、その“契約”成立の中に、情が入り込む余地がない。

 他方、私のやり方だと、契約というイメージが薄れる。
 実際にはメールで申し込んでいるので、契約成立と同じだが、なんとなく、それはいつでも撤回できそうな感じがする。

 相手の事情もあるだろうから、それはそれで、私自身も、融通性をもたせていたいと思う。

 けれども最近、私は、その「契約」ということを、強く自覚しはじめてもいる。

 「契約」というからには、立場は「同じ土俵」でなければならない。 
 私が申し込む立場だとしたら、逆に私自身が「同じ土俵」に立ちたいと思う。
 そのほうが、私の心がすっきりするからだ。

 例えば、カウンセリングを電話で受けて、料金を払わない人がいる。
 なかなか払わない、を繰り返す人もいる。

「なあんだ、じゃあ、払わないほうが得じゃないですか」
 と思う人がいるだろう。

 ところが「意識の法則」では違う。

 カウンセリング料を払わないから“得した”と発想する人は、責任という点が抜けている。

 前記した、「同じ土俵に立ったすっきり」感というのは、この責任の部分ではなかろうか。
 
 カウンセリング料というのは、単に一例だ。
 お金を借りて返さない、も同様だ。

 金銭的には得するものの、「責任を果たさない」不満足感と、「責任を果たして」すっきりする満足感と、どちらが、“楽に”幸運を招くか。

 当然のことながら、後者のほうである。
 もちろんそれは、経済的豊かさともリンクする。

 物事をうやむやにしてしまうと、そのこだわりは、自分が感じていなくても、無意識の中に蓄積する。

 うやむやは、「中途半端な人生」のパターンを創る。
 一時の“得”が、生涯の“損”につながる。

 21年間も心理に携わっていると、小さな出来事の中にすら、その人の一生のパターンが現れているのがわかる。

 相手がどんな思いでいようと、「同じ土俵に立った」そのすっきり感のほうを、私は選びたい。
 契約と、この「すっきり感」は、多分、同等である。

 だから私は最近、このすっきり感のために、相手の事情を鑑みながらも、はっきりと請求したりもするようになってきている。
 それに、結局、そうすることが、相手を育てることにもつながる。