戦っても戦っても、どうにもならない(1)

『青春の旗』という旧作を見た。森川時久さんの作品である。

 両親を亡くして、父親代わりの長男(田中邦衛さん)を筆頭に、次男、三男、長女、四男の家族の物語りである。

 当時は、とてもヒットした作品だと思うが、とにかく、家族同士が自分の主義主張を通そうとして、やたらと争い合う。

 殴り合うほどになるのだから、主張とも言えない。ディベートとも言えない。
 
 家族愛という大義名分があるから、一般の家族間との争いとは違うように映る。
 だが、「関係性」で言えば、まったく同じである。

 恋愛や結婚など、当人同士の問題であっても、第三者がその大義名分で首を突っ込む。

 それぞれが、自分の生き方を主張し、他人の生き方を否定する。
 否定されれば、反発したくなるから、当然、争いが起こる。

 個々の根底にあるのは、無自覚だけれども“怒り”だ。

 でも、一体誰に向けての怒りなんだろう。

 社会に?
 政府に?
 家族に?
 親に?

 戦前、戦中、戦後にかけて、犠牲になって生きた庶民の意識が、その根底にある。

 戦っても戦っても、人生は、思うようにならないという……。

 「意識の法則」からすれば、「戦っても戦っても」という、そんな悲痛な叫びの意識が実現していると言えるのだが、良くも悪くもそんな時代だったのだ。

 その作品を見たという六十代の男性が、言った。

「私の青春は、こうだったんだ」

 いまの戦後の高齢者(予備軍)の人たちの意識が、なんとなく理解できた。

 彼らは、「戦っていくのが人生だったのか」と。

 戦うから、せめて、家族だけには分かってもらおうとして、依存しすがる(仮に怒鳴っていても)。

 読者の人は、
「なぜ、いまさら、そんな昔の話を?」
 不思議に思うかも知れない。

 とんでもない。
 そんな昔の話、とも言えない。
 なぜなら、相談に来る人たちの多くの親が、そんな世代だからである。

「戦っても戦っても、どうにもならない」
 必死になって、そんな虚しい戦い方をしてきた世代。

 自分の両親を、そんな目で見れば、「話が通じない」のも当たり前かと、多少は親のことを理解できたり、やさしい気持ちになるのではないだろうか、という思いで書いた。

 そんな親を相手に「わかってもらおう、わかってもらおう」とすがっていく子供。これも依存だ。
 やり方はちょっと現代風になっているけれども、やっていることは同じ。

 もしかしたら、そんな親の時代を理解できれば、その分だけ、子供は、“心”が親から自立する。(つづく)