私をわかってくれる人がほしい(1)

 友達がいないと訴える人が少なくない。

 それも「自分と同化するように合う相手」を望む。

 現実には、そんな相手はあり得ない。

 これはほとんどジョークだが、
 私は「相手に思いっきり甘えたい」とする。
 私が望むのは、100パーセント自分を甘えさせてくれる相手である。

 他方、自分と同化するように合う相手がいるとしたら、その相手も、
 「私が望むのは、100パーセント自分を甘えさせてくれる相手である」を望むだろう。

 結局、私も相手も「100パーセント相手に甘えたい」になるので、この「相手に100パーセント甘えたい」が満たされることはない。

 そもそも、「自分と同化するように合う相手」を望むとき、それは右脳でそんな相手をイメージ化しているだけだから、はなはだ抽象的で漠然としている。
 私の望む〇〇が具体的にあって、具体的に〇〇を叶えてほしいというものでない。

 だからその「思いっきり甘えたい。心を満たしてもらいたい」を、漠然と相手に望む限り、それは永久に得られないだろう。

 「思いっきり甘えたい。心を満たしてもらいたい」と必死に思っているときは、誰かにすがりたいという気持ちでいっぱいになっている。
 例えば、すがる意識に陥っているAさんが、自分を救ってくれるかも知れないBさんに、何度も何度も、電話をする。

 その度に、Bさんは、電話に出て、Aさんの相手をする。
 Aさんの相手をして、Bさんはヘトヘトになる。

 それでAさんが満足してくれるかと言うと、決してそうはならない。
 むしろAさんの不安や恐怖は増大する。
 Bさんの努力とは裏腹に、いっそうすがりたくなってきて、Aさんの電話をする回数はますます増える。

 Bさんの立場から言えば、Bさんのやっていることは、Aさんの不安や恐怖を煽っているだけである。

 ではAさんは、どうしたらいいのだろうか。
 あるいはBさんは、どう対処したらいいのだろうか。

 これをメルマガで伝えるのはむずかしい。

「それを知りたいんだ。出し惜しみするな」
 と思うかも知れないけれども、残念ながら、むずかしい。

 それこそ、せめて、読者セミナーなりでも受けてもらうしかない。

 実はこの「せめて読者セミナーなりを受けてもらいたい」。これこそが、答えである。
 つまり「選択の責任」の“責任の部分”である。

 これだけで意味が理解できる人は、なにが起こっているのか、何が足りないのかが、わかるはずである。(つづく)