私をわかってくれる人がほしい(2)

 すがってもすがっても、決して、満足は得られない。

 簡単にいうと、友達にしろ物質的なものにしろ「ほしい、ほしい」に捕らわれている人は、現実を生きていない人である。

 例えば、
 女性の井戸端会議。
 そこにいない相手の悪口や噂話。
 友達がいないという想い。
 恋人との間で、会っていても、満足度の低い状態。

 「満足度」という点においては、いずれも、似たりよったりである。
 例えば、井戸端会議で、AさんとBさんが二人で、Cさんのことを話題にする。

 情報交換という点においての満足度があったり、Cさんという人を俎上にあげて、あれこれと噂し合うときの一体感もあるだろう。
 けれども、それは、Cさんを介してであって、AさんとBさんが、二人で向き合っている状態ではない。

 Aさんは、Bさんと会って、満足する?
 Bさんは、Aさんと会って、満足する?

 むしろ、こんな場合は、AさんとBさんは、決して、親しい仲である必要はない。

 あるいは、友達ができないというAさんが、Dさんに、
「私は、なかなか友達ができないんです」
 と相談した。
 そのとき、Aさんの頭の中では、自分が友達になりたい人や、自分を仲間外れにしている人たちが想起されている。
 
 このときAさんは、自分の前にいるDさんのことは、眼中にない。
 このときのAさんは、不満足感でいっぱいになっている。
 
 そんなふうに、親身になって相談に乗ってくれている人が、自分の目の前に存在するにもかかわらず、である。

 もしAさんが、Dさんがそばにいてくれることに感謝できたり、一緒にいてくれることに喜びを感じることができれば、満足度は高いだろう。
 もしAさんが、Dさんに対してだけでなく、いま、自分の目の前にいる人との関係を、もっと味わうことができるなら、「この世に、私を理解してくれる人は、一人もいない」というような感じ方はしないだろう。
 
 同様に、満足度が低い恋人同士は、相手を見つめる時間が少ないか、一緒にいても向き合っていないのだろう。

 こんなふうに、目の前にある満足を味わえない限り、どんなにすがっても、何千回と電話しても、何千回とメールしても、満足しない。 

 どんなに愛されていても、愛するひとがそばにいても“愛”を感じなければ、そこには、愛がない。

 まさにこれが、「現実を生きていない」状態である。(終わり)