同じパターンで悩んでいる(1)

 もろもろの悩みをパターンでみると、パターンの数はそれほど多いものではない。

 例えば、自分中心心理学でいえば、暴君者・犠牲者・詰問者・諦観者というタイプに分けている。
 最近では、それらを、脳の構造に当てはめて呼んだりもしている。

 それぞれのタイプにはそれぞれのパターンがあるので、それを個人に当てはめてみても、どんな言動パターンになるかの予測は立つ。

 先頃起きた秋葉原の悲惨な事件の犯人は、諦観者タイプだった。
 長崎出版より発刊した中で、4人の武将を例題に出しているが、その一人の明智光秀さんが、まさに、このタイプだといえた。

 殺した後、どうするつもりだったのか、という問いに対して、
「そこまで、考えてはいなかった……」
 というようなキレ方をするのが、特徴だ。
 光秀さんもそうだった。

 もちろん、諦観者タイプの人がみんな凶悪と言っているわけでない。諦観者の“負の部分”をたくさん蓄積していった果てにということである。

 話は変わるが、先日の即効性ワークの中で、例題のワークをしたときに、
「最近は、こんな頭ごなしに怒鳴ったり怒ったりするタイプは少なくなって、(言葉では説明しにくいが)顔色をうかがいながらまとわりつくような言い方をする人が増えている」
 というような意見を言っていた方がいた。

 それでも、大きなパターンからいえば、「同じことをしている。ただ、そのやり方、表現の仕方が異なるだけである」という見方をする。
 パターンというのは、それぞれをどういうふうに仕分けするか、だ。
 分け方の基本設定の仕方で、どういうふうにでも分けることができる。
 血液型で分けるか誕生日で分けるか、といったふうに。

 その基本設定の仕方によって、「同じ」だと見えるものも、別の人の眼には、違ったパターンに見えるだろう。

 個人的には、「どの分け方のほうが有効か」といったぐらいの認識で受け止めている。

 「自分中心心理学」的な観点からみると、さらに、「最近は、こんな頭ごなしに怒鳴ったり怒ったり~」という見方そのものも、一つのパターンを現している。

 それは、自分が自分の周囲から「どこを切り取ってきて見るか」。
 これにもパターンがあるからだ。

 例えば同じ場面で、怒鳴る場面を切り取るか。卑屈になっている場面を切り取るか。楽しい場面を切り取るか。悲しい場面を切り取るか。うれしい場面を切り取るか。

 出来事が事実であると同時に、自分の切り取り方がどうであるかによっても“違った事実”に見えてくる。

 そんなパターンを、それぞれの個人の悩みに当てはめても同様だ。

 悩みのパターンは同じであるにもかかわらず、本人には、毎回別の悩みが生まれているように映ったりもする。
                       
 余談だが、心理学に多少でも興味を持っていれば、自分が「同じパターン」で動いていると気づくだろう。
 けれども、その「同じパターン」すら、自分中心の視点に立つと見え方が異なる。

 自分中心なり即効性ワークなりを受講したとき、その違いがわかるだろう。

 また、自分中心心理学のその「基本設定」の仕方を理解していると、同じパターンだと気づいた後も、解決が速い。(つづく)