行動できない(2)

「思考で解決しよう」とするその奥には、「行動するのが恐い」という思いが潜んでいます。
 
 では、「行動するのが恐い」のは、どうしてでしょうか。

 もろもろの理由があります。
 たとえば、
・責任を過剰に考えているから。
・結果を考え過ぎるから。
・未来を煩い過ぎるから。
といった具合に、いくつでも挙げることができます。  

 とりわけその中でも、「責任を過剰に考えているから」という点。
 
 親子関係でいうと、わかりやすいでしょう。

・親が私に期待するので、親の期待に応えなければならない。

・親の言うことには、自分の意志や気持ちが違っていても、従わなければならない。

・親がかわいそうだから、自分を犠牲にしても、親を守ってあげなければならない。

・親が私に愚痴をこぼす。それを聞いているのはつらいけれども、親は苦労したから、私は、その愚痴を聞いてあげなければならない。
(これは、ほんとうは「同情の支配」をされているのですが、同情の支配をしている人も、されている人も、それに気づいていません。)

 こんなふうに「相手のために、しなければならない」と思い込んでいることも、責任を過剰にとっていると言えるのです。
「とっている」というより、それを「とらなければならない」と思うから、苦しくなって、行動するのが恐くなるのですが。

 当たり前ですね。

「私が責任をとれる範囲の選択をして、私が選択した範囲での責任をとる」
 これは、それほど困難なことではありません。
 なぜ?って、自分がとれる責任の範囲での選択ですから。

 自分自身のことでしたら、「私がその選択も、その選択の責任の範囲」も、自分で決められます。
 けれども「相手の期待」といったものは、それを果たそうにも、際限がありません。
 際限がないことに対して責任をとらなければならないとしたら、「行動するのが、恐い」となるのは、当然ですね。

 それで「行動するのが恐い」となって動かないと、
「行動できないお前は、だらしない」
などと責められて、さらに、その“責め”に対してまで、責任を負わなければならないとしたら、もう、踏んだり蹴ったり、だと思いませんか。(つづく)