「私を愛する」を優先すべきときがある

 私はできるだけ「べき」という言い方はしないよう努力しているし、自分の意識の中でも、どんどん「べき」思考を外していきたいと思っている。

 けれども、ここでは敢えて「べき」と使いたい。
 子供を愛している。けれども、変らない、という状況のときは。

 子供が、心を固く閉ざしている。見ていて、ハラハラするぐらい荒んだ生活をする。子供が、部屋にひきこもって、口をきいてくれない。
 といった具合に、もう、あの手この手、どんなことをやっても「万策尽き果てた」というような状況のとき、相手を動かそうとするのは、無理である。

 心のなかで、どんなに相手を愛していても、愛しているからこそ、見ていて、心が痛んだとしても……である。

 仮に、明らかに自分が悪かったとしても、
「私の責任で、子供がそうなってしまった」
 と嘆き悲しんでいるとしても、そんな状況で、相手を変えることはできない。

 こんなときこそ、子供よりも“私”にもどって、「私を愛する」が先である。
 「私を愛するほうがいい」というレベルではない。
 まず「私を愛する」である。

 「私が私を愛する」を優先“しなければ”相手は変らない。

 私(石原)がこう言うと、
「えっ? 子供より、自分を優先しろって言うんですかッ。そんなこと、できません!」
 と抵抗する人がいる。
 苦しい状況に陥っている人ほど、こんな抵抗をする人が少なくない。

 けれども子供の立場からすると、
「あなたの、その頑なさが、子供を苦しめてるのではないでしょうか?」
 と言いたい。

 では、どうしてそんなに頑なになるのか。

 それが……「私を愛していない」から。

 例えば、
「子供にきつく当たるのはやめよう。怒鳴るのはやめよう。どんなにそう決心しても、気が付くと、子供に、自分の感情をぶつけてしまっているんですね」
 というふうに、「してはいけない」ことをしてしまう。

 それは、子供と同様に、親も、心の傷みが大きいからだ。
 親が自分の傷みを抱えたまま、子供を愛そうとしても、できるわけがない。親のほうが、愛を求めてあえいでいるのだから。そして、愛を得られなくて、子供につい当たってしまう。こんな悪循環に陥ってる。

 というふうに、自分の心を置き去りにしたままで、相手を愛するのは難しい。
 だからまず、そんな状況に陥っている人ほど、「相手よりも、まず自分」である。
 
 子供も自分の愛し方を親から学んでいない。
 それを子供が学ぶには、誰かが見本を示すしかない。

 誰が示すのか。

 それを子供に押し付けてやらせようとしたら、すでに、その時点で“支配”になっている。
 だから、親が、自分を愛する。その方法を、子供が“見て、学ぶ。
 じかに経験して学ぶ”。というやり方しかない。

 もちろん時間はかかる。けれども、そんな長期的な時間が必要であるほど大きな問題なのだ、ということも自覚する必要があるだろう。

 なぜなら、それが、お互いを「育て直す」期間になるからです。