やってもらって当たり前

 Aさんから、こんな質問をいただきました。
『私の人生は、「選択の責任」もヘッタクレもなかったので、いまは、人生を整理するかのように、苦手な部分を練習しています。
 例えば、相手がコーヒーを入れました。「選択の責任」で言えば、これは、相手のことです。それを「どうぞ、どうぞ」と言ってきました。
 私は、飲みたかったらいただき、飲みたくなければ、「今日は結構です。ありがとうございます」と言って、断ります。これなら、“親切”で終わるかもしれません。
 ですが、何度も続くうちに、「お茶汲みは、あの人がやるからいいだろう」と、当たり前に思うようになりました。これは、“依存”かな、と。』

 どこにでもありがちな話ですね。
 これはどちらかといえば、「お茶を出す」側のほうをテーマにしたいですね。

「選択の責任」で言えば、相手が親切心でお茶を出すかどうかは、相手の自由です。
 ですから、Aさんが、自分の気持ちにそって「飲む、飲まない」を決められるのは、いいことだと思います。なかには、断れない人もいますから。

 相手が入れてくれると、最初は、「ありがとうございます」だったのが、だんだん慣れてくると「入れてくれて当たり前」になってしまうのは、「相手との関係性」で言えば、無理のないことだと思います。

 ただ、強いて言えば、支配性の強い人ほど、「当たり前」感覚になっていくでしょう。
 理想を言えば「入れてもらって当たり前」感覚にならないでいて欲しいと思います。

 支配性の低い人は、自分から入れたりもするでしょう。
 逆に、相手が入れてくれるのが、飲むように強制されているように感じれば、お互いに「自分のことは、自分で」と提案するかも知れません。

 こんな場面で「いつも」というパターンになっているとしても、自分をみると、ほんとうは、入れてもらうその時々によって、自分の感情も変化しているのに気づくのではないでしょうか。

 では、お茶を入れる側としては、どうでしょうか。

「お茶を入れる側」は、それをどんな気持ちで入れているかどうかを、みてほしいと思います。

 どうして自分がお茶を入れ続けるのか。
 ここには、単に親切というだけでない理由があります。この点についての心理をテーマにすることもできますが、ここは割愛します。

 いつも自分が入れるのが「当たり前」感覚になっていたら、それに気づくことも大事です。
「当たり前」感覚になっているとしたら、もともと、自分の中に、コントロールされやすい意識があるでしょう。

 コントロールされやすい意識(被支配的意識)があると、お茶を入れてあげながら、知らずのうちに、「入れてあげたのに、お礼も言ってくれない」などと、相手に対して不平不満を抱いていきがちです。

 大事なのは、「入れたかったら、入れる。入れたくなかったら、入れない」。
 あるいは、入れてあげたとき、「相手が、断るのも自由」になっているかどうか。

 もし“自由”になっていれば、お茶を「入れてあげたり、あげなかったり」ができるはずです。
 あるいは、入れる前に「お茶を飲みますか」と尋ねることができるでしょう。

 こんな自分中心の関係であれば、お茶を入れるほうも、入れてもらうほうも、互いに温かい気持ちで交流できるし、心から「ありがとう」の気持ちにもなると思います。