「私が悪い」「相手が悪い」の世界

「問題解決処理能力」という点において、自分中心心理学のセミナーを多少なりとも受講したことがある人と、そうでない人とでは“雲泥の差”が出てくる。

 自分の周辺に起きた出来事に対して、どんなことが起こったのかを、聞いていくと、その捉え方と説明のしかたで、その人に、問題解決できる能力があるかどうかが、すぐにわかる。

 例えばあなたが、
「こんなつらい出来事が起こったのは、どうしてだろうか」
 と、過去を振り返った。

 一般的な見方をするとしたら、その出来事や過去の中に「原因や理由」を見い出そうとするだろう。
 そしてその原因や理由を自分なりに解釈したり分析する。

 けれども、いくら原因や理由を探っても、それをどう解決したらいいかは、わからない。
 だから大方は、相手を責めたり、自分を責めたり、で終わってしまう、というようなことになる。

 過去にさかのぼって、原因や理由を探っただけでは、まだ、それをどう解決していっていいか、わからない。

 その中には、無意識の「目的」もある。

 では、無意識の「目的」がわかれば、解決できるのか。
 無意識の目的を探れば、「ほんとうは、自分が何を欲しているのか」の見当はつく。
 
 それでも、これだけでは、解決できない。
 
 受信・発信コーナーのKさんが、自分で「ここが足りなかった」と言っているように、
“客観的事実に焦点をあてて「実況中継する」ように見る”
 という、自分中心的見方が必須となる。
 こんな客観的な見方ができない人ほど、自分の身の上に、何が起こっているかが、理解できない。

 自分中心的見方ができないで、堂々巡りの思考をしている人をみると、
「こんな見方をして生きてきたとしたら、そうとう、つらかっただろうなあ」
 と、そのつらさを思って胸が痛む。

 即効性ワークはとくに、この「客観的見方」を育てる。
 ここができない限り、適切な問題解決はあり得ないからだ。

 ではどうして、大半の人が、客観的見方ができないのか。

 一つの大きな要因は、自分自身がそれを自覚すると、「私が悪い」になってしまうからである。

 例えば、あなたが、職場で、同僚と争っているとする。
 このとき、あなたが、「私は互角に、相手と争っている」と自覚できる人は、まだ、解決できる道が広がっている。

 けれども「相手が悪い」に凝り固まっていると、解決がむずかしくなる。

「相手が悪い」と主張したい人は、自分もその争いに加わって「争いの種をまいているのだ」と自覚できない。あるいは、自覚したくない。

 自覚すると、「相手が、私を傷つけている」だけでなく「私も、相手を傷つけている」のだとわかる。
 しかし、それを認めると、相手が悪くないのなら、「私が悪い」になってしまう。

 自分の中に、「勝ち負け、善悪」があって、それを基準に、“裁く”をしている人は、この、「私が悪い」を、どうしても認めるわけにはいかなくなる。

 「私が悪い」となると、白旗を揚げて降伏すると、裁かれる立場になるのだから、絶対認めるわけにはいかない。
 
 “認める“こと、イコール「白旗を揚げて全面降伏することになる」わけではない。
 (とりわけ、ここを強調しておきたい。)

 これをイコールに解釈すると、降伏するわけにはいかないから、どうしても「相手が悪い」と主張せざるを得なくなる。

 相手を戦う存在と認識して「勝ち負け。善悪」を持ち出すと、「私が悪い」「相手が悪い」のどちらかで終わってしまい、いつまで経っても、問題解決の道にたどり着けない。

「私が悪い」「相手が悪い」の世界にどっぷりとはまっていればいるほど、苦しさが募っていく。しかも、問題は解決できないから、いっそうつらくなるばかりであるだろう。

 この世界から外れたときにはじめて、
「その出来事が、なぜ起こっているのか、そしてまた、それにどう対処すればいいか」
 というような、見方ができる頭脳になっていく。