「私が悪い」「相手が悪い」の世界2

アマゾンの評価で、長々とマイナスの評価が書いてあった。
 それを書いた人と、それを信じた人たちは、「自分中心」の楽な世界を知らないで終わるのだろうか、とそれがちょっと、残念な気持ちになった。

 その一方で、(プラス評価であってもマイナス評価であっても)いずれにしても、新刊のあの本を読んだからといって、
「あの中に書いてある自分中心を、ほんとうに理解できる人は、絶対にいないんじゃないかと思います」
 と言っていた人がいた。

 それは、自分中心心理学の概念は立体的であるために、平面的な「思考」では理解できない世界だからだ。

「第一の感情」で自分の気持ちをそのまま言語化するというのは、こういうことですよ、と私が例題を出したとする。
 例えば、
「あなたに電話したいけれども、怖くて電話できないんだ」
 非常に簡単なセリフです。

 思考で読むと、
「なあんだ、簡単じゃん」
 と思うだろう。
 確かに、難しい漢字をつかっているわけでもない。言語の難解度では、小学生や幼稚園レベルである。

 そこで、こうなる。
「ところで、どうしたらいいですか。どこに問題解決の方法があるんですか?」
 私としては「だから、いま、例題を示しましたよ」という気持ちである。

 文字を文字として読むだけでは、心が響かない。
思考で読むから、
「で、次は?」
「で、どうしたら解決するんですか?」
 と、次々に、思考に流れていく。

 では、実際に、リアルにその相手を目の前にして、その言葉が、とっさに出るかどうか。
 それを体験的に知っている人は、
「まさに、いまの私が、その気持ちなんですね。この言葉を言うと、気持ちがとても楽になります。でも、実際に、相手を目の前にしたら、こんな言葉が出てきません。第一、こんな言葉すら、思い浮かびません」
 となる。
 こちらのほうは、言葉遊びの言語の世界ではなく、実生活の立体的な体験に基づいている。

「こんな、自分が楽になる言い方があるんですね。非常に新鮮です」
 という人もいる。

 新境地。新しい世界。目に鱗。
「第一の感情」で言えたときの感激を、こんな言葉で表現する人もいる。

「私が解放される言葉。私を愛する言葉」は、他者に意識が向いている限り、絶対に出てこない。
 意識が自分に向いていてはじめて、違った世界があると気付く。

 この前、出かけるときにチラッとテレビを見たら、小学校の授業風景が目にとまった。授業の内容は「物の貸し借りのときの、言葉の使い方」を指導していて、教師が、
「感情のコントロールの仕方を指導しなければならない」
 というようなことを言っていた。

 こんな言葉を耳にするたびに、一般に言う「感情」というのは、自分中心心理学で言うところの「第二の感情」のことを差しているのだなと、つくづく思う。(つづく)