「私が悪い」「相手が悪い」の世界3

 感情は「コントロールすべきだ」などと、よく、言う。
 
 実は、コントロールすべき感情になっているとき、すでに、それは「第二の感情」になっている。

 小学校で「感情をコントロールする」をテーマに、ロールプレーをやっていた。

 テレビを詳しく見ていたわけではないので、どんなことをしていたのかは、わからない。けれども、子供のコメント、先生のコメントを聞
くと、「感情のコントロール」らしかった。
 貸し借りの場面で、言葉のレッスンもあったらしい。

 私の心に引っかかったのは、感情の“コントロール”という言葉だった。

 例えば、物の貸し借りの場面で、
「僕、遊びたいから、貸してよ」
 と言ったとする。
「コントロールする」を前提にすると、相手は、貸したくないけれども、感情をコントロールして、
「うん、いいよ」
 と、仕方なく同意しなければならない、と学習するかも知れない。

 そのとき、“借りた”僕は、相手が貸したくないのを察知する。すると、相手の気持ちを無視することになるから、借りることに罪悪感を覚える。
 相手の気持ちに鈍感になっていれば、顕在意識では、借りることに罪悪感を覚えないだろう。けれども、実際には、潜在意識では何が起こっているのか知っていて、それが無意識下に蓄積されていく。
 罪悪感を蓄積していけば、どこかで、自分を罰するように動く。

 また、借りる“僕”は、平気で借りるけれども、貸している“相手”は、いつか、感情を抑えきれずに、“僕”を攻撃するかも知れない。

 あるいは、相手が、
「イヤだ、貸したくない」
 と言ったら、“僕”は、貸してくれないために、借りて遊びたい感情を、抑えてコントロールすることになる。
 これも、貸したくない相手と、心理状態では、似たようなことが起こる。

 このように、「感情をコントロールする」という発想に立っている限り、いたちごっこのように、さまざまな問題現象が起きてくるだろう。
 最近の、小中高校生の暴力の急増化が、それを顕著にあらわしていると思う。

「相手が悪い」「私が悪い」の発想になっていくのにも、実は、こんな「感情のコントロール」が一役買っている。

 では、どうしたらコントロールしないで済むのか。
 新刊の「つい悩んでしまうがなくなるコツ」で書いているように「私を愛する」という視点に立つということである。

「私を愛する」という視点に立てば、「感情はコントロールするものではなくなる」。
 コントロールするよりも、「解放する」になる。

 感情をコントロールしなければならないような感情になっているときは、自分の意識の目が、相手に向かっているときである。

 こんなとき、意識の目が「私に向かえば」、第一の感情に気付いていく。

 第一の感情に気付いて、自分の感情の解放のしかたを自分中心的に処理できれば、少なくとも感情を“コントロールする”から、解放される。

 といっても、たぶん、多くの人が、「なんとなく、わかるような、わからないような」というところだろう。

 このあたりは、平面的な文字で理解するより、立体的な実感でしか、わからない。
 だから、実際にやってきた人たちの大勢が、
「本で言っていることの意味が、やっと、わかりました」
 というほど、自分中心というのは、体験的なものである。

 この例で経験的に言うと……、
「感情をコントロールする」は、感情に鈍感になるために、「借りて得した」という意識になるだろう。この場面では、「相手が貸したいのかどうか」は、蚊帳の外になる。
 ただ、無意識はわかっているので、相手を差し置いて「得した」と認識している。

「自分の感情を大事にする」は、相手の気持ちを感じることができるので、「得した」という思いよりも、心からの「ありがとう」の気持ちが湧くだろう。
“僕”の感謝の念が相手に届けば、相手も感情をコントロールして「無理して貸した」という思いも、ここで癒されて、解消する。
 ここが、感情をコントロールすることと、「自分の感情を大事にする」ことの、違いだと思っている。