同じ出来事で自分が見える 1

 少し以前のことになるが、もう書いてもいいころかもしれないと思うので、ブログに載せます。

 朝青龍さんの引退の話題は、すでに昔のことになっている。

 彼の引退が決まった翌日だったろうか、原稿の打ち合わせで外にいた。

 そのお店で、制作の人と打ち合わせをしているとき、男性客が飛び込んでくるや、店員さんに、
「朝青龍、二千万だってさ」
 と、興奮気味に言った。

 なじみの客が多い居酒屋である。

 すると、制作の人が、
「いや、一億数千万円だよ」
 と言いながら、その額の多さに、不満と驚きが入り交じった表情をしている。

 今度は、従業員さんが、
「こんな風になるのは、当たり前だよ。相撲というのは“道”だよ。あいつは、倒れて負けが決まっている相手に、こうだよ、こうッ」
 と、相手を殴る仕草や足で踏みつける仕草を繰り返した。
「相撲だよ。相撲。人間だったら、勝ったんだから、相手に手をさしのべて起こしてあげるもんだろうが。あんな奴は、やめて当然だよ。絶対に許せねえ」

 従業員さんのその勢いに気圧されたのか、後の二人は、黙り込んでしまった。

 そのとき私は、頭の中で、6年周期リズムや意識の法則を考えながら、
「あんな形でやめるなんて、“無意識”というのは、すごいなあ」
 と、関心していた。
 テーマ(話題)は、朝青龍さんのことである。

 けれども、それぞれに、見方が違う。
 自分のフィルターを通して朝青龍さんの出来事を捉えるから、自分が現れている。

 男性客は、たぶん、殴った相手との示談金の額の大きさに驚いていたんだろう。もめ事とそれに伴う示談金の額の多さに、「ごね得」と感じたのだろうか。
 制作の人は、お金に関心があったから、退職金のお金の額に驚いていた。
 従業員さんは、お金よりも、人間性に焦点が当たっている。
 私個人としては、従業員さんの見方のほうが、好感が持てる。
 私は、意識の観点から、一連の出来事を見ている。朝青龍さんは言動が直線的だからわかりやすいので、観察するにもうってつけである。
 これについては、次回、話をしてみたい。

 ただ、テレビで、ある司会者さんが、
「おちゃめで、明るくて、可愛いんですよね」
 というようなことを言っていた。
 影響力のある電波である。
 その言葉だけで締めくくって欲しくないと、そのとき思った。
「おちゃめで可愛い」ことと「暴力」とは別問題だ。
 暴力に対してはとくに「責任をとるべきだ」という明確な態度を示してほしかった。

 それにしても、四者四様。
 視点はそれぞれ違っていても、会話が通じているところが面白い。
 通じていないけれども、話題性がそこに集中して、通じているように“感じる”。雰囲気が盛り上がる。
 内容は、どうでもいい。
 雑談って、まあ、こんなもんでしょうが、焦点が異なるから、争いにもならないし、楽しい。
 従業員さんは、自分の言葉に興奮したのか、次の客の注文を間違っていた。(つづく)