奪う意識 3
最初に、「奪う意識」というのは「奪われる」という意識につながると言いました。
これは重要なことです。
奪えば奪うほど、今度は、それが自分に返ってきます。
「自分の奪う」意識は、自分が奪うからこそ、他者に対しても、「自分のものを奪う」と映るでしょう。
まだ、「奪う」の意識が優っているうちはいいのです。
けれども「奪う」を続けていると、それが無自覚であっても、「奪ったものを取り返される恐怖」、さらには、自分のものさえ「奪われるのではないかという恐怖」が強くなっていくでしょう。
奪ってゲットする悦びよりも、「奪われる恐怖」のほうが優っていくと、やがてそれが実現しはじめるでしょう。
奪われないために大金を投じたり、奪う人を引き寄せて大金をだまし取られたりするような環境へと、自ら進んでいくというふうに、無意識に、自分がそれを実現させるような選択をしていくからです。
精神的にも、絶えずそんな恐怖を抱いていれば、充実感や満足感がその中に割り込む隙もありません。「奪ったもの」で囲まれながらも、不安や恐怖でいっぱいになるのです。
この「奪う」を、お金や物にたとえると、ピンとこない人もいるかも知れませんが、この「奪う」は、“愛”に置き換えても同じです。
このように、最終的には、物質的にも精神的にも損をするように思います。
意識の法則を心から信じることができるなら、
「奪わなければ手に入らない」
を、
「奪わなくても、手に入る」
にすれば、それも叶うはずです。
それを実践できる人は、そうそう、いないでしょう。
それでも、自分の思いが形になるという「意識の法則」が事実であるなら、そうなるはずです。
(共時性ともテーマが重なりますが、長期的な目で見れば、すべての人が「自分の願い」は叶っていると、気づくはずです。)
「奪わなくても、手に入る」
「奪わなくても、それは勝手に自分にやってくる」
ここまで意識の法則を信じることができれば、素敵だろうなと思います。
少なくとも、私にとっては、救いです。
「奪う」のがイヤイヤでたまらない人、「奪う」のが苦痛で苦痛でたまらない人が、今の社会で信じられているように「奪わなければ(勝たなければ)、手に入らない」と信じていれば、永久に、物質的に豊かになることはないでしょう。
だから、そういった人は、
「奪わなければ、損をする」
「奪わなければ、手に入らない」
といった公式を、塗り替えてみてはどうでしょうか。
「奪わなくても、手に入る」
単に、自分がそう決めるだけでいいのです。
冒頭に書きました。
「勝ち負けを争う競争社会では、相手に勝つために、しばしば奪い合う場面が展開します。支配性の強い人ほど、奪わなければ手に入らないと思い込んでいます」。
子供の頃、私はこの奪い合いができず、またそんな場面になるのが苦痛で苦痛でたまりませんでした。争い合って奪わなければならないのなら、いっそ、負けたほうがまだラクだと思っていました。それでも、譲ってばかりでは……。
個人的には、子供の頃のそんな苦痛が、これで解決できれば、万々歳です。
誰もが、それを証明できたら、素晴らしいでしょうね。(おわり)