他者中心の究極

 時々、自分勝手に、好きなように自分(だけ)のことをどんどんやっている人を、“自分中心”と勘違いしていて、
「勝手に会社を休んだり、自分の仕事を人任せにしたりして、自分中心にやっている人がいるけれども、私はあんなふうにはできません」
 などと言われます。

 そんな人の中には、バイタリティーにあふれていて、好奇心も旺盛で、頼りがいがあるふうに見える人もいます。リーダーシップに富んでいて、指導力があるし、押しが強くて逞しい、と映ることもあるでしょう。

 けれども、どんなに能力があっても、相手や周囲のことはまったく気に留めず、一方的に推し進めていく人を、自分中心とは言いません。
 むしろそれは、一見、人生に成功しているふうに見えるとしても、相手をまったく“感じない”他者中心の究極の姿と言ってもいいでしょう。

 これまでは、しばしば、そういう人が豪傑だ、豪快だ、頼りがいある、傑出した人物、というふうな評価を得てきたに違いありません。今も、そうかも知れません。俳優の勝新太郎さんなどが、そういうイメージにぴったりです。
 確かに、まったくの赤の他人から見たら、胸がスカッとする豪快さがあります。

 けれども、もしあなたが、そんな人と身近で付き合うとしたら、どうでしょうか。その身勝手さに振り回され、どんどん傷ついていくのではないでしょうか。
 
 そんな男性を支える女性が美しいとされる時代もありました。
 傷ついても、女性は、それを“愛”だと勘違いしている時代だからこそ、通用していたとも言えるでしょう。
 それを豪快と思うのは、社会が、ピラミッド式の支配関係を前提としていたからです。

 自分中心というのは、他人のことなど考えないでいい、ということでは決してありません。
 自分中心は、空気を読むよりも、もっと「相手を感じる」ことを重視します。
「相手を感じる」ことができれば、「自分さえよければ」ということはしません。

「自分さえよければ」という人は、相手の話を聞く耳をもっていません。
 しゃべるとしたら、一方的にしゃべります。自分がしゃべっているときは楽しいと感じているかも知れませんが、相手が話をしはじめると、とたんに無関心になったり退屈そうにするでしょう。

 それが自分中心だとしたら、昔の人のほうがもっと自分中心ということになります。
 ところが、実際は、
「まったく話がかみ合わない。話を聞いてくれない。話が通じない」
 そんな親子関係、夫婦関係で悩んでいる人たちが、たくさんいます。

 むしろ、そんな「他者中心の究極」の姿を、「羨ましい、素晴らしい」
 と思うとしたら、そちらのほうこそ問題です。なぜなら、そんな人たちを支えているのは、それをノーだと言えない周囲の人たちだからです。