「心配する」は愛情だろうか
帰宅の遅い息子が心配になって、母親が電話します。
「また出かけるの。何時に帰ってくるの」
「いま、どこにいるの」
電話の向こうから人の声が聞こえると、
「誰といるの。私の知っている人? どんな人なの、大丈夫?」
さらに遅いと、
「帰りは何時になるの。心配だから、早く帰っておいで」
こんなふうに言われると、息子のほうは、どんな気持ちになるでしょうか。
「うるさい」と感じるのではないでしょうか。
けれども母親は、「うるさい」と感じる息子の気持ちを認めることができません。
それは、母親が“自分の心配”に囚われていて、「息子を感じていない」からです。
こんな母親に対して、
「こんなにも自分のことを愛してくれているんだ」
と思っているとしたら、あなたは、かなり「同情の支配」に汚染されています。
「あなたが心配だから。あなたのためだから。それも心配。これも心配。あれも心配。することなすこと心配」
と言われ続けてきたら、どんな人間になると思いますか。
「心配」という言葉ではありません。
あなたに向けられる、母親の感情です。
母親のその「心配の感情」を言葉に置き換えると、
「あなたは何もできない、無力な人よ」
「あなたは、私がいないと、何もできないのよ」
「あなたはダメな人だから、私にすがって生きるしかないのよ」
と言っているようなものです。
こんなふうに「あなたは無力よ。あなたは無力よ」という無力メッセージを、何年も、くり返しくり返し言われるのですから、自信がなくなっていくのは、当然ですね。
果たして、これが愛情でしょうか?
もし、それを愛情だと思い込んでいる人は、「自分が自分のために何かしよう」とするたびに、罪悪感を覚えるでしょう。
「私が、私のために生きる」と、親をなおざりにしているような気分になります。
「私が、私のために生きる」と、
「もう少し、優しくしてあげてもいいのに。私は冷たいんじゃないだろうか」
などと自分を責めたくなります。
人によっては「私が、私のために生きる」と、親にひどい仕打ちをしているような罪悪感に駆られたり、親を裏切ってしまったような罪悪感を覚える人もいるでしょう。
けれども、「私が、私のために生きる」ことに罪悪感を覚えるなんて、ヘンでしょう。
もしあなたが、こんなふうに「私が、私のために生きようとする」ことで罪悪感を覚えるとしたら、あなたがそれを“苦しい”と感じる、自分の感情のほうを信じることです。