あの老人との後日譚 1

「“つい悩んでしまう”がなくなるコツ」(すばる舎)に、個人的な例として、バス停留所での話を載せている。意外にもその個人的な話に関心を抱いてくださる方が多く、好意的なコメントをいただいたのだが、ネットで「たいしたことでもないのに、そんなことして、何に
なるんだ。くだらない」というような内容の記事を眼にした。

 内容を知らない人のために簡単に説明すると、バス停の近くで、かなり高齢の男性が転んでしまった。なかなか立ち上がれずに抱き起こすと、思った以上に血を流していた。ちょうど介抱し終わったときにバスが来たので、急いで飛び乗ろうとした。すると、バス停に立っていた別の頑固そうな老人に「~!」と一喝されて、押し飛ばされた。
 詳しいことは本を読んでいただきたいが、私はその老人の乱暴な態度と物言いに気分を害した。自分の気持ちをスッキリさせるために、私はもう一度言おうと決めた。
 自分のための「自分表現」である。
 実際に、バスを降りた後、その老人に言えた一言で、自分に芽生えたマイナス感情を引きずらずに済んだ、という内容である。

 その後、一度も会うことがなかった。
 もしかしたら、私が気づかなかっただけだったのかも知れない。

 私自身は、「そういえば彼の老人は」と一二度、頭をよぎったことはあったが、自分中心心理学の定義通りに、主張してさっぱりしていたので、まったく、そのことが尾を引くこともなかった。

 ところがある日、その老人が、バス停から少し離れたところに立っていた。
 前回は、バス停の前に立って俺が一番、という態度をとっていて、いかにも「頑固な老人」ふうだったのが、その影が感じられなかったので、見間違いかと思ったが、今回も、特徴のあるものを握っていたので、確かにその人物だった。

 私はすでに気持ちには何も残っていないので、彼をぼんやりと見ていた。彼は、私に気づいているのかどうか、私のほうを見ない。

 今度は明らかに、彼のほうが先に到着していた。私は、
「はいはい、今度は確かにあなたが先ですね。あなたがバス停の遠くにいても、順番は守り、あなたを手招きしてあなたにお譲りしますよ」
 そんな言葉を彼に投げかけていた。

 バスがきた。
 私が彼を待とうとしても、彼は動かない。
 私が彼に声を掛けようとしたその瞬間、別の女性が、私を出し抜き彼を手招きして呼んだ。
 そう……、私の出番はまったくなかったのだ。

「自分がこだわらなければ、引き寄せない」という「意識の法則」どおりの結果となった。彼とは交わることもなく、一悶着も起こらなかった。

 彼は、その女性から声を掛けられると、好々爺の表情で、嬉しそうに小走りで寄ってきた。彼は終に私とは視線を合わせず、小さく「(譲ってくれて)ありがとう、ありがとう」というような態度で、腰を折りながら私の前を通り過ぎた。
 あのときとうって変わって、物腰の柔らかい態度と表情の彼に、私のほうが驚いた。

 あの出来事が、彼の心に何らかの変化をもたらしたのでは、と私は推測している。

 あの後で、彼が自分を恥じ、謙虚さを学んだとしたら、どうだろう。
 彼が謙虚になったから、女性が彼に声を掛ける気持ちになった。前の彼だったら、声を掛けたとしても、彼が不遜な態度を取って、彼女も傷ついていたかも知れない。彼がそうではなかったからこそ、ほんのちょっとの時間だけれども、温かい心に包まれた。

 そこで彼は学ぶ。
「なんだ、自分の頑迷さを捨てれば、愛を得られるんだ。頑固である必要はないんだ」
 と。もし、そうだとしたら、彼にとっては、私との小さな出来事が、大きな収穫となり得る。
 そんな思いで、私もその二人の姿を見守りながら、温かい気持ちになった。 (つづく)