あの老人との後日譚 2

「たいしたことでもないのに、そんなことして、何になるんだ。くだらない」の意見に、言葉を添えておきたい。
 確かに、どこでも転がっている、些末的な出来事である。たいした問題でもない。
 見過ごしても、それが日常に影響を与えるものでもない、と思うだろう。

 けれども、小さな出来事も、とらえ方によって大きな変化をもたらす。
 むしろ私は、小さな場面に気づいたほうが、厳しい状況や辛い状況に遭遇しないので、常々、より小さな場面に気づいてほしいと、言っている。

 例えば、先の老人は、頭の固い、他者に対して否定的な老人である。
 彼は、私に怒鳴って正しいことをしたと思っているかも知れない。人には間違いや勘違いがあるので、注意するのは悪くない。けれども、“怒鳴って”注意することはない。怒鳴る必要はないのだ。どんな場面で感情的になるのかは、その人の根底の意識にかかわっている。

 さらにこれを、自分中心心理学的に言えば、「怒鳴る」というやり方で人に関わることを目標としている、というふうにも解釈する。

 本当は、誰かに甘えたい。優しくされたい。愛されたい。けれども、先の老人は、
「人と関わりたい。けれども関わり方がわからないので、相手より優位に立てる場面で怒鳴る。
 頑固で怒鳴る人だから、人に敬遠される。さびしくなる。人恋しくなるので、人と関わりたくなると、また、つい、似たような場面で怒鳴って人に関わっていく。その中には、自分に優しく関わってくれない人への怒りも含まれている。そして、人に敬遠される」
 こんな悪循環になっていればいるほど、彼は「頑固な怒鳴る老人」になっていくだろう。すでになっていたのかも知れない。

 けれども、私とのことが、心に刺さった。
 その経験から、ほんのちょっと謙虚な気持ちが芽生えた。
 もし、彼の心の中に、そんな変化が少し起こったとしたら、そんな小さな変化でも、それが大きな結果を呼ぶ。
 もしかしたら、彼のその謙虚さが、これから、自分が幸せになる方法の一つになるかも知れない。
 自分中心心理学は、相手と戦わなくても、こんな小さな場面で、「私も相手も」変えることができる。なぜなら自分中心心理学は、こんなふうに、肝心要のところをピンポイントで対処するスキルを目指しているからである。

 小さな場面も大きな場面も、パターンは一緒である。だったら、早めに小さな場面に気づいてそれを修正したほうが、無駄な労力もいらないし、苦労も少ない。さらにまた、小さな場面に気づいて早めに手当したほうが、大事にならないし、大事にならないように予防できる。(おわり)