相手を慮ることの弊害

「あなたのためだから」
「君のためなんだよ」
 といったコマーシャルがテレビに流れているのを耳にしたことがあります。
 もちろんそのコマーシャルは、「あなたのために」があなたのためにはなっていません。
 そのコマーシャル通りに、相手のためを思ったり、慮っているつもりでいても、その“思いやり”が的外れの場合が少なくありません。

 例えば、
「私は、自分の気持ちを素直に、表現する」
「相手も、自分の気持ちを素直に表現する」
 とします。
 “私”と相手との意見が違うとき、お互いに自分を通そうとすれば、争いが起こるでしょう。
 だから、争いたくない。傷つきたくない。相手を傷つけたくない。あるいは、相手を怒らせて嫌われてしまうのが怖いので我慢する。
 つい、こんな対応をしがちです。

 けれども、本当に、自分の気持ちを伝えて、相手も自分の気持ちを伝えて、それが同じ意見でなかったら、争いが起こるのでしょうか。

 “私”が自分の気持ちを言った。相手がそのとき、
「そうか、あなたは、あのとき、そんな気持ちだったのか」
 と答えました。
 あるいは、“私”が相手に、
「そうだったのかあ。あのとき、君は、そんな気持ちだったのか」
 と言いました。
 「私と相手」は同じ場面を体験しているときに、それぞれの立場から、どういうふうに見えたのか、どういう気持ちでそこにいたのか、お互いの気持ちを知ることができました。
 ここに争いは起こるでしょうか。

 ところが実際には、感情的になったり争いになってしまう……。

 まず、「私が意見を言っても、相手は反対する」という思いが強いと、その恐れゆえに、つい、自分の意見を相手にごり押ししがちです。

 けれども、本当は相手が反対するからではなくて、自分がごり押しするから、相手もその意見を受け入れるのが怖くなって、その言い分を退けたくなってしまう、ということが起こっているのです。

 さらに、自分がごり押ししながら、
「相手の立場に立って、相手のことも思いやらなければならない」
 などと思うと、その「しなければならない」という思考とは裏腹に、感情的には、いっそうしたくなくなっています。

「相手を思いやりたくない自分」になっている自分に気づいて、それで罪悪感を覚えると、いっそう、相手の意見など聞く耳を持つどころか、相手は「自分を攻撃している」というふうにも感じるでしょう。

 相手のことを思いやる必要もない。前もって理解しようとすることもない。私は私の気持ちや意見を述べる。
 相手も私を思いやる必要もない。前もって理解しようとすることもない。相手は相手の気持ちや意見を述べる。

 それで争いにならないのは、どういうときでしょうか。

 それは、“私”も相手も、まずは、お互いに相手の話を充分に「聞く耳」を持っている、というときです。

 お互いに相手の話を聞く耳を持っていれば、恐れなく、自分の気持ちを表現できます。
 ほとんどの場合、感情的になったり争いになったりするのは、「お互いの意見が正反対だから」ではなく、お互いに、相手に対して、「意見が違うと否定される。傷つけられる。意見を言うと攻撃される」、そんな恐れがあるからでしょう。

 相手を恐れることなく、「自分の気持ちを言える」としたら、それを互いに聞き合えるとしたら、無理に相手の立場に立たなくても、心から「あなたの気持ちはわかるよ」になるのではないでしょうか。
 あなたは相手と話をしているとき、「聞く耳」を持っていますか?

(もちろん、自分の気持ちを表現するときは、「第一の感情で言う」ことができるかどうかも、「相手と争わないで聞く耳を持つ」ための大きな要素ではありますが。)