感情の塊を感情と勘違いしている

 職場では「自分中心には、できませんよね」という人がいました。
 もしその人の解釈が「感情基準にして、自分の主張を通す」のが自分中心ということであれば、職場には適用できないと感じるのも、もっともだと思います。
「感情を基準にする」の“感情”が、感情的になるということを意味するとしたら、なおさら、職場では自分中心ではいられないと思うでしょう。

 もちろんそれは「自分中心」ではありません。

 自分中心心理学でいうところの「感情を基準にする」は、ごく小さな感情のことです。
 むしろ、感情的になっている状態は、「第二の感情」に振り回されている状態で、しかもそんな状態になるのは、普段が「他者中心」で生きているからだと言えるでしょう。

「他者中心」になって、相手のことばかりみていると、ついつい、自分の感情に気づかずに素通りさせてしまいがちです。その間に、自分に生じた小さなマイナス感情は未処理のままに蓄積されていきます。

 気がついたときには、それは大きな感情になっていて、それが「感情的になる」という形で表面化します。

 というよりは、日頃から自分の感情に気づいていないために、マイナス感情がエスカレートしていって耐え難くなったときようやく「自分の感情に気づく」といった具合に、自分の感情を無視している人ほど、「感情的になったときに、感情的になっている自分に気づく」ということになるでしょう。

 また、一般的に感情をマイナスにイメージしがちなのは、その多くが、「小さな感情が集まって大きな感情となって感情的になってしまう」状態を、“感情”というふうに勘違いしているからではないでしょうか。

 そんな人にとっては、問題が起きたとき、職場や家庭、あるいはそれぞれの環境でのさまざまな出来事に直面したとき、それを解決するには、それぞれに応じてさまざまなスキルを使い分けなければならないというように見えているでしょう。

 大きな感情の集合体を一つの塊と見なして西洋医学的な発想をすれば、複雑に見えるのも無理ありません。複雑に映るから、どれだけでも新しい病名が生まれそうです。
 しかも、その度に薬も治療法も異なるとしたら、それをマスターするなんて、考えただけでため息が出てきそうです。

 自分中心心理学で言うところの“感情”というのは、そんな、すでに大きくなってしまった感情ではなく、もっともっと小さな感情を言います。
 もちろん、プラスもマイナスも、です。

 この「もっともっと小さな感情」というのは、その時々、その瞬間瞬間の感情です。

 たとえば、相手が言葉を発した。(それを聞いてどんな気分になっているか。)
 私が言葉を発した。(私は、どんな気持ちでその言葉を発したのか。どんな気持ちでいるのか。)

 こんな、その時々に感じる感情です。

 その感情がもっともっと高画質的になっていけば、感情というより「意識」と呼ぶでしょう。

 自分中心はすべてに適用できます。
 そもそも私自身が、その時々、その相手によって対応を変えなければならないのが面倒なので、自分中心心理学をつくったのですから。

 基本は実にシンプルです。
 物事や心理が複雑に見えるのは、全体が見えていないからです。
 自分中心になっていけば、次第に曇っていた視界が鮮明に見えてくるでしょう。