「私のために」の意味

 自分中心心理学は、人のためよりも、まず「私のために」というとらえ方をします。
 この「私のために」という意味が、どうも、うまく伝わっていないようです。

 まず、この自分のためにというのは、決して、相手を支配したり、相手を傷つけたり、脅したり怒鳴ったりしてでも、自分の欲求を通すことではありません。

 自分の利益に反するのでは「私のために」ではないじゃないか。そう思う人も少なくないかと思います。

 けれども、例えば「相手と争ってでも、相手を打ち負かしてでも、自分の要求を通す」ことが、果たして本当に「私のために」なっているかどうか、です。

 これが自分に、どんな影響を与えるか、もう少し詳しく考察すると、どうでしょうか。
・まず、望みのものは手に入ります。
・打ち負かした相手とは、敵対したり反目し合ったりするでしょう。
・相手と争うことのストレスは計り知れません。
・自分の肉体を酷使しています。
・自分に、毒の噴霧器(マイナスエネルギー)をふりかけているようなものです。
・それが繰り返されれば、その行為そのものが、自分のライフスタイルのひな形となっていきます。つまり、緊張、争う、苦労、困難、奪われる恐怖といった形として。
 しかも、どんなに望みのものを得ても「不満足の人生」となっていくということです。

 それだけではありません。
・もし、このとき、自分に“罪悪感”が生じれば、自分を罰しようとします。

 この“罪悪感”は、一つは、自分自身の勝手な思い込みの罪悪感があります。
 もう一つは、罪悪感というよりは、“調和”へと向かうためにバランスを取ろうとする本質的な “調和の意識” があります。

 仮に、
「自分は、どんなことをしても全く罪悪感なんて感じない」
 と豪語できる人であっても、長期的にみれば、この本質的な調和の意識が、現象としては、まるで自分自身を罰しているようなことが起こるでしょう。
(社会のいまの現状をみれば、それは納得いくのではないでしょうか。)

 このように、「私の利益のために、強引に相手を打ち負かしてでも傷つけてでも、自分を通す」というのは、決して、「私のためになっていない」ということに気づいてほしいものです。

 飽くまでも、自分の感情を解消するために、自分の心が楽になるために、自分の感情や気持ち、意志だけではなく、肉体や、自分に備わっているものすべてを愛する、という意味での「私のために」なのです。
 しかもこんな「自分中心の“私のために”」のほうが、私を大事にするプロセスだけでなく、結果としても、物事がスムーズに、そして順風満帆な人生になっていくのです。
 自分中心心理学は、人のためよりも、まず「私のために」というとらえ方をします。