「選択の責任」は深い(1)

 ほんとうは、「ありがとう」と言うべきところが、“当たり前”になってはいないでしょうか。

「選択の責任」を理解していないと、例えばご飯を作ってもらうことでも、作ってくれて当然となります。
 選択の責任を理解していると、作ってくれた相手に、感謝する気持ちになれるでしょう。

 選択の責任を理解すると、一回、一回をリセットする意識が育ちます。

「私」と「相手」の境が見えないと、してくれるのが当たり前になってきて、だんだん「してくれないと腹が立つ」になっていきます。
 選択の責任を理解していると、一回、一回、それが「ありがとう」という気持ちになれます。相手との関係では、一回、一回、リセットできる意識が、相手との関係をよくしていくのです。

「私が収入を稼いできてるので、あなたがそれをしてくれるのは当たり前」
 というような、まるで交換条件のような発想もしなくなります。

 収入を稼ぐことと、ご飯を作ることとは別の話です。
 それを分けることができれば、どちらも「ありがとう」になります。
 それが分けられないと、「どっちが得か」「どっちが損か」という発想になりがちです。損しているという思いが湧いてくると、争いの種を引き起こすでしょう。

「選択の責任」を理解していると、こんなところでも、「ありがとう」が増えていくのです。
 もし、それが増えていないとしたら、まだ、あなたは、「選択の責任」を理解しているとは言えないでしょう。

 また、選択の責任を理解していると、表現のしかたも変わってきます。
 ご飯の例でいえば、それが当たり前になって慣れてしまっていると、
「ご飯、作ってよ」
 となります。

 他方、理解していると、
「ご飯、作っていただけますか」
 と、同意を得る気持ちで依頼できるでしょう。

「頼むこと自体」が、スタートの意識になるために、やってもらったら「ありがとう」という気持ちが出てきやすくもなるでしょう。

 この「選択の責任」は、私たちが選択したことには責任が発生するという、選択とその責任の取り方、あるいは果たし方がセットになっています。とても適切な用語だと思います。

 この「私を認める。相手を認める」という意識を育てるのに、選択の責任は必須です。
 どこの心理学もあるいは心を扱う組織も、「私を認める。相手を認める」というのが重要な課題だということがわかっているのですが、それを、どういう言葉で表現すればいいか苦心しているようです。例えば、問題の分離、課題の分け方、問題の仕分け等々。

 でも自分が意志を持って選択し、その選択したことに関しては自分に責任があるという意味の「選択の責任」の中には、自分の意志と選択権、自尊心、自負心が感じられるのではないでしょうか。

 これは極めれば極めるほど「愛の基準」とすることができます。
 理解できればできるほど「罪悪感」を軽くすることができます。
 あなたを自由にし、解放します。
 そういった深さも含んだ、非常に素晴らしい自分中心心理学独自の言葉だと思っています。 (つづく)