「選択の責任」は深い(2)

「選択の責任」で、“相手を認める”というと、相手の自由を認めなければならないのがつらい、という人が少なくありません。

 結果優先の思考だと、そんな公式になってしまうでしょうね。それは、どちらが自分の主張を通すか、どちらが、勝利するかに視点が当たるからです。

 相手を優先しなければならない。相手を優先するとしたら、私が我慢しなければならない。あるいは、相手の自由を認めなければならない。相手の自由を認めると、私の自由はなくなる。私は我慢しなければならない。
 そんな公式で考えると「選択の責任」がつらくなるでしょうね。

 もちろん、つらくなるのは「選択の責任」を理解していないからであって、「選択の責任」の定義が間違っているからではありません。

 相手の自由を認めると、自分の自由がなくなる。
 私の自由を認めると、相手の自由がなくなる。

 これは、大きな勘違いです。

 お互いの心が通い合わない状態、まったく平行線の状態で、お互いに好き勝手にやっているのを「自分中心だ」と解釈したり、それを「選択の責任だ」と思っている人もいます。

 けれども、それは「互いに認め合っている」関係と言えるでしょうか。
 お互いに干渉しない。やりたいことを、勝手にやる。さびしいのは、自分の責任。病気になるのも自分の責任。だから、知ったことじゃない。

 こんな関係に、「共に信頼し合っている」という姿があるでしょうか。
 こんな関係には、温かい心の交流もありません。まさにこれは、一見、「お互いに、お互いの自由を認め合った」ふうに見える、“自己中”の究極ということができるでしょう。
 そこには、人間らしい温かい血の通った関係はありません。

 生き方も、考え方も、したいことも、それぞれ異なる。
 だからこそ、お互いに、相手がそれを選択したとき、それが自分にとってつらいと感じたとき、心が通い合う交流ができるか。満足し合える交流ができるか。

 最も重要なのは、“結果”ではなく、お互いの関係で問題が生じたとき、それを満足いく話し合いや納得のいく寄り添い方ができるかどうか、そのプロセスです。
 つまり、解決そのものよりも、解決へと向かう「プロセス」そのものの“満足や充実感”のほうが遙かに重要なのです。

“相手と私の自由”が両立しないと思っている人ほど、依存関係になっています。
“私と相手の自由”が認められる人ほど、自立しています。

「自分を大事にする」と同時に「私と相手との関係も大事にできる」。
“個”と“他”あるいは“全体”との調和(つまり、満足。愛情)する。そのために「選択の責任」があるのです。
「選択の責任」を基準にして、相手と話し合う時間、一緒にいる時間そのものの“満足感や充実感を実感する”とき、「個を大事にし、他を大事にし、全体とも調和する」ことができるようになっていくでしょう。
 我々を幸福へと導く「満足感や充足感」は、プロセスのほうこそが重要だと、経験のレベルで気づいた時です。 (おわり)