思いやりと我欲

「人を思いやりましょう」
 と敢えて言う人は、「人を思いやらなければならない」と思っています。そこに意識が当たって、敢えてそれを訴える人は、自分がそれにこだわっているということです。

 多くの場合は、それは、自分自身ができていないからです。

 そういう方法で、「人に思いやりを示す」ことはできると思います。
 そういう人は、自分なりに努力もしているでしょう。

 けれども、どこかで自分の欲求を我慢して、それをするから「無理」が生じます。自分では自覚なくても、むしろ、自覚がなければないほど、無意識のときには、人に思いやりをもつどころか、自己本位なことをしているかも知れません。

 あるいは、無理をしている自分に気づいても、それを「しなければならない」と思っているから、「腹を立てながら、思いやりを示している」でしょう。
 えッ? 腹を立てて? 思いやる?
 そうなって、いませんか。

 しかもそういうときは、その「思いやり」の示し方も、どちらかと言えば、「押しつけ」になっているはずですし、また、それを過剰にしているはずです。

「我欲を捨てましょう」
 と敢えて言う人もそうです。聖人たらんとして、「我欲を捨てなければならない」と思っています。

 けれども、それを説くわりには、我欲の塊に見える人もいます。
 ほんとうは、自分が我欲に苦しんでいる。それは、「みんなが我欲に走るからだ」と思っている人もいるでしょう。
「みんなが我欲を捨ててくれれば、自分が欲のために我を張らなくても済むのになあ。
 みんなが我欲を捨てて、自分の思う通りに従ってくれれば、イライラしたり怒ったりして感情的にならないで済むはずだ」
 などと、無意識に思っています。

 いずれにしても、苦しくなるのは自分です。

 自分の感情を後回しにして、「思考」から入ると、こんな矛盾で自分を苦しめることになるでしょう。

 どんなに素晴らしい宗教の教えを読んでも、実行することはできないでしょう。
 教本を引っ張り出してそれを実行しようとしても、最終的に残るのは「しつこい怒り」かも知れません。
 人からの説法は、耳あたりはよいけれども、その場限りとなるでしょう。

 宗教も、教本、説法も、それは、実行した人たちが得た「結果」生まれたものです。
 そこには、そこに至るまでの方法論が語られていません。
 どうやってそんな境地に至ったのか?
 具体的な日常生活でのプロセスを体験しなければ、もろもろに書かれている境地に至ることはないでしょう。
 もろもろに書かれているのは「プロセスを経た結果、得られた」ものです。

 いきなり「結果」を真似しても、楽になることはできないのです。
 だから、プロセスのほうに焦点を当てられる能力が重要なのです。