大難を小難にする方法 1

 自分中心心理学の基本に、「一対一の法則」というのがある。

 例えばAという人心操作に巧みな人物がいる。

 Bは、Aの教えが正しいと服従する。
 Cは、Aの教えは正しくないと反発する。

 Aを信じる者は、Bに加担する。
 Aを信じない者は、Cに加担する。

 あなたがその光景をみていると、どちらかに加担したくなるかも知れない。
 もし、そうだとしたら、あなたもまた、Aの策略に乗ったということになる。

 Aにとっては、それはどちらでもよかった。
 むしろそうやって、どんどん加熱していくほうが都合がよかった。

 なぜなら、Aの真の目的は、BとCを争わせることだったからである。

 だからAは、どちらにも加担しない。
 あるいは、裏から、どちらにも加担する。

 BとCが争えば、互いに争い合って自滅する。Aは、何もしないで、勝利する。

 Aは、BもCも裏で煽動すればいいのだから。

 戦う意識が強い人ほど、そんな単純な煽動に乗せられていく。

 このときのAとBとCは、三角関係である。

 三角形の一辺を崩すと、三角形は崩れる。
 ここで、Aが退くと、BとCの「一対一」の関係となる。

 一人が降りると、争うのが好きな人たちは、BとCのように「一対一」で争うようになる。

 仮にCが正しいとしても、争いは起きるのだ。

 このときもしCが、「一対一」の法則に目覚めて、その争いから降りれば、次には、AとBが争いはじめるだろう。

 戦うのが好きな人たちは、どう装っていても、争っていく。
 だから、最終的には、戦うのが好きな人たち同士で争って自滅していくというのが「自然の摂理」なのである。

 争いから降りたほうが賢明であるというのは、こういうことである。

 だから、争いからは降りて、より良い生活をめざしたほうがいい。
 それは「無関心」とは違う。

 そこには、状況を把握しながら、自分を大事にする方法で、状況を変えていこうとする意識がある。

 これは、別の言い方をすれば「自分の選択」と、その「選択の責任」という。
 いまは、この「責任」の時代なのだと思う。

 自分たちの責任を、いま、自分たちにつきつけているのだ。
 だから、その「責任」を自覚すれば、自分が、何をすればいいかが、自ずと知れてくるだろう。

 日月神示でこういうことが書いてあった。 (つづく)