「いま」を感じるということ
ここ数日、雨が降りつづいている。今日の朝は、少し晴れ間が覗いていた。しばらく空を見上げているうちに、バスがやってきた。
始発に近いので、行きはほとんど毎回、座ることができる。
私の前の席に座っていた人が、次の停留所で降りた。
バスが走り出そうとしたとき、車内の別のところに座っていた若い男性が、その空席に、滑り込むようにして座った。二人掛けの席から、一人掛けの席に移りたかったのだろう。
男性は、座るやいなや、身体を左右に動かし、伸びをした。伸びをした腕を後ろに回したとき、指が後部シートに座っている私のバッグに当たり、慌てて腕を引っ込めた。
しばらくすると、何かぶつぶつと独り言を言い始めた。耳を澄まして聞き耳を立てたが、何を喋っているか聞き取ることはできなかった。
その間にも、身体が左右にくねくねと動く。一時も、動かないではいられないらしい。
独り言はつづく。
表情はわからないけれども、イライラしているのが、からだと頭の動きでわかる。
終点に近づいたとき、男性の独り言がはっきりと、聞き取れた。
「あ~あ疲れたあ。疲れたッ」
と大きくため息をついた。そして、
「あ~あ、眠い。眠いッ」
と、大声で連発していた。
その声を聞いたとき、30分の間つづいた独り言が「眠い」ということだとしたら、その30分間を眠りに当てることができたら、それだけでも眠気を解消できただろうに、と思った。
もちろん、眠ろうとしても眠れないという状態だったのはわかる。
けれども頭の中で、
「眠い、眠い。でも眠れない」
というふうにつぶやいたとしたら、いっそう眠ることができないだろう。
身体は眠りたがっている。けれども、その眠りを邪魔しているのは、
「眠い。疲れた。眠れない」
といった言葉である。
「思考」が、眠りを妨げていた。
読み方によっては、そんな状態をいけないことだと言われているように感じて、
「誰だって、そんなことがありますよ」
と言いたくなる人もいるだろう。
しかし、それを言いたいのではない。
言いたいのは、これが、
『いまを感じていない』
という状態であるということだ。
彼は、30分の間、一時もじっとしていることがなかった。その落ち着きなさからすると、ずっと、そんな状態を抱えて生活しているように思えた。
思考に囚われていると、「いまを実感できない」。
簡単に言うと、悩んでいる人の多くが、こんな状態にいる。
もしこのとき、目を閉じて、身体の感じ方のほうに焦点を当てていれば、もしかしたら眠ることができただろう。あるいは、眼を閉じて、ゆっくりとリラックスできれば、多少なりとも休息をとることができただろう。
換言すれば、いまを実感できれば、自分を苦しくさせる思考の牢獄から抜け出すことができる。