自分の能力に限界を設けている

 会員さんの中に、物事をスイスイと叶えてしまう人がいます。
 あまりにも順調にいくので、ふと、大丈夫かなと思ってしまうこともあります。
 その人のことが大丈夫かなと心配になるのではありません。

 私もそうですが、ほとんどの人が、知らずのうちに自分に限界を設けています。
 自分の能力はこれぐらいだろう。
 社会なんて、そういうものさ。
 人生なんて、その程度さ。

 気になるのは、その人の将来ではなくて、その限界を、その人が、どれだけ本気でとっぱらうことができるか、ということです。
 その本気度を心配してしまうのです。

 自分が、限界をどのあたりで設けているのかは、実際に、物事が起こってみないとわかりません。

 また、自分が限界を設けることが悪いと言いたいわけでもありません。
 むしろ、限界を設けるのは、そうすることで、自分が直面したくない恐怖を避けていられるから、というメリットがあります。
 言わばそれは、自分を守る砦です。

 この限界に、顕在意識と無意識とのギャップがあります。
 顕在意識では、できると思っている。
 けれども無意識は、そうは思っていない。
 このとき、自分の顕在意識を優先すれば、無意識がブレーキをかけます。もちろん、自分を守るために、です。

 例えば、経済力の安定を目標に結婚したとします。
 自分が望んだとおりに、経済力の安定は、得られます。

 しかし、この「経済的な安定」は、人によっては、望んでいたにもかかわらず、それに気づいていない人が少なくありません。
 気づいていようといまいと、“実感”として望めば、得られます。

 けれども、その“実感”は、それ以上でもそれ以下でもありません。

 ところが顕在意識は、違います。
 目標とした「経済力の安定」が得られているにもかかわらず、「私は愛がほしいのに、得られない」と嘆いたりするのです。

 無意識はこう言いたくなるでしょう。
「えっ? 望んだのは経済力の安定だろう。それがいつの間にか愛なんて。そんなのまだ、精神的に準備が整ってないだろう」

 そのときには、自分が心から望んだことは、とうに忘れてしまっているのです。
 自分に「限界を設けた」のは、自分自身だということに……。
 愛はどうでもいい。とにかくいまは、経済力だ、と。

 つまり、最初から、「私は経済力も愛もほしい」と望めば、そうなっただろう、ということです。

 顕在意識と無意識が望んでいることとの間には、ギャップがあります。

 だから「自分中心」というのは、どれだけ自分が知らずに設けている限界を取っ払うことができるか、そのレッスンでもあると、私は思っています。

 冒頭の会員さんに対する心配は、そんな顕在意識と無意識のギャップを埋めて、自分が設けている限界を、本気で取っ払う気があるのかどうか、ということなのです。